2009年4月30日木曜日

あめつちの



    天
神  地
の  の
す  中
が  に
た  み
と  ち
見  た
つ  る
つ  草
恐  木
れ  ま
よ  で


卜部兼邦
兼邦百首歌抄

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再び厭な想像


ある日唐突にメキシコで新型感染症が流行という報道。
感染者が多数おり多くの死亡者が発生しているという。
(上記は疑例。感染が確認されたのは現時点で7人)
みるみる報告が増えてアメリカでも報告激増。ついに、
そうしたところ米国海兵隊の最大の基地で感染報告が。
するとすかさずバクスターからワクチンのアナウンス。
(今ココ)
非常事態に兵士の命を守れと米軍全員にワクチン接種。
当然、イラク・アフガンの兵士も在日米軍も接種対象。
空港での検疫を尻目にバクスターワクチンが国内到着。

また厭な想像をしてしまった。

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ウイルスは情報によって作られる


疑例と確定例とが混在しているのがややこしいところ。
メキシコとそれ以外とで分けて考えたほうがよさそう。


【メキシコ】
感染確認 49人。うち死亡例 7人。致死率14.3%。
疑いを含めれば感染2549人。死亡159人。致死率6.2%。
【メキシコ以外】
感染確認 134人。うち死亡 1人。致死率 0.7%。
疑いを含めれば感染 479人。死亡 1人。致死率 0.2%。
その死亡例もアメリカに治療に来ていたメキシコの子。

これってどういうこと?メキシコとそれ以外は別疾患?
2500人規模の感染者なんて把握しきれないだろうから、
逆にメキシコのデータは不確定な要素が多いわけです。
アメフルは情報によって作られているということかな。


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今のところ「普通」



現時点ではアメフルは弱毒型と考えてよさそうですね。
つまり新しい普通のインフルエンザくらいの感じです。
だったら検疫などせずに罹ったほうが免疫ができそう。
第2波第3波の途中で変異し強毒化した場合に備えて。
少ないウイルスに曝露して軽く罹るくらいがねらい所?

体調管理に気をつけて、
人混みに長時間は避け、
うがい手洗いを心掛け、
あわてず普通に暮らし、
ひいたと思ったら休む。

今の処はこんなもんでよろしいのではないでしょうか。
ただ疑問なのはメキシコでの死者が多いというところ。

そんな中こんな報道がありました。GW中に発表かな。

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2009年4月29日水曜日

水際作戦の手順


ブタ由来とされる新型インフルエンザを当ブログでは、
AMEXインフルエンザ(通称アメフル)と呼称します。


厚生労働省は29日アメフルの診断手順を公表しました。
1.発熱やせきなどの症状無がある場合は対象となる。
2.鼻粘膜をぬぐい簡易キットでA型かどうか調べる。
(数分~30分)
3.B型ならアメフルの疑いはなく行動制限されない。
4.A型陽性ならば遺伝子検査で香港型か否か調べる。
(最短半日~)
5.香港型でなければ疑例として指定医療機関に隔離。
6.隔離されれば家族や同乗者も空港周辺に足止め。
7.最終的には遺伝子検査で確定例かどうかを調べる。
という感じで水際で捕捉しようということのようです。

疑問1)疑例の場合の隔離期間中に二次感染はないか。
疑問2)入国時潜伏期間で症状がない場合は素通りか。
疑問3)軽微な症状の場合に正直に申告するだろうか。

水際で捕捉しようというのは無理なのではないですか。
そんなところにコストと労力を費やし疲弊させるより、
各家庭にパンフレットでも配った方が足しになります。
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昭和天皇御製

大正十一年
世のなかもかくあらまほしきおだやかに 朝日にほへる大海の原
大正十五年(大正天皇崩御・昭和天皇即位)
広き野をながれゆけども最上川 海に入るまでにごらざりけり
昭和三年(即位の大礼)
山山の色はあらたにみゆれども わがまつりごといかにかあるらむ
昭和五年
磯崎にたゆまずよするあら波を しのぐいはほの力をぞおもふ
昭和六年(満州事変)
ふる雪にこころきよめて安らけき 世をこそいのれ神のひろまへ
昭和八年
あめつちの神にぞいのる朝なぎの 海のごとくに波たたぬ世を
昭和十二年(支那事変)
みゆきふる畑の麦生におりたちて いそしむ民をおもひこそやれ
昭和十三年
静かなる神のみそのの朝ぼらけ 世のありさまもかかれとぞ思ふ
昭和十五年
西ひがしむつみかはして栄ゆかむ 世をこそ祈れとしのはじめに
昭和十六年(対米宣戦布告)
あけがたの寒きはまべに年おいし あまも運べり網のえものを
昭和十七年
峰つづきおほふむら雲ふく風の はやくはらへとただいのるなり
昭和十八年
ゆたかなるみのりつづけと田人らも 神にいのらむ年をむかへて
昭和十九年
つはものは舟にとりでにをろがまむ 大海の原に日はのぼるなり
昭和二十年
風さむき霜夜の月に世をいのる ひろまへきよく梅かをるなり
戦のわざはひうけし国民を おもふこころにいでたちてきぬ
わざはひをわすれてわれを出むかふる 民の心をうれしとぞ思ふ
海の外の陸に小島にのこる民の うへ安かれとただいのるなり
爆撃に倒れゆく民の上をおもひ いくさとめけり身はいかならむとも
国がらをただまもらんといばら道 すすみゆくともいくさとめけり
夕ぐれのさびしき庭に草をうゑて うれしとぞおもふ母のめぐみを
昭和二十一年
ふりつもるみ雪にたへていろかへぬ 松ぞををしき人もかくあれ
国をおこすもとゐとみえてなりはひに いそしむ民の姿たのもし
昭和二十二年
たのもしく夜はあけそめぬ水戸の町 うつ槌の音も高くきこえて
ああ広島平和の鐘も鳴りはじめ たちなほる見えてうれしかりけり
霜ふりて月の光も寒き夜は いぶせき家にすむ人をおもふ
月かげはひろくさやけし雲はれし 秋の今宵のうなばらの上に
昭和三十九年(東京オリンピック)
この度のオリンピックにわれはただ ことなきをしも祈らむとする
昭和六十三年
みわたせば春の夜の海うつくしく いかつり舟のひかりかがやく
夏たけて堀のはちすの花みつつ ほとけのをしへおもふ朝かな
やすらけき世を祈りしもいまだならず くやしくもあるかきざしみゆれど
(治療にあたった医師への歌)
くすしらの進みしわざにわれの身は おちつきにけりいたつきを思ふ
昭和六十四年(崩御)
(歌会始のためにご準備された御製)
空晴れてふりさけみれば那須岳は さやけくそびゆ高原のうへ

悪魔のカクテル



豚はヒトインフルにもトリインフルにも感染するため、
同時に二重感染した豚の中で遺伝子のカクテルが起き、
ウイルスが変異するのではないかという説があります。
トリインフルが人へ感染することは今のところ稀ですが、
たまたま同時感染すれば同じ様なことが起こり得ます。


感染性の強いAと強毒性のBのカクテルを作るのなら、
悪魔は豚と人のどちらをシェイカーに選ぶでしょうか。
感染性の強いAは放っておいても自然に広がりますが、
Bの感染力が弱ければ直接的な曝露が必要になります。


医薬品へのウイルス混入データを持つ会社があります。
薬害エイズのバクスター社
そのバクスター社についてこんなニュースがあります。


予防対策上ワクチン接種の第一対象は医療関係者です。
病院から感染が広がったとしても違和感はありません。
医療システムを最初に潰しかつ効率よく感染を広げる。

新型コンピューターウイルスが流行っていると宣伝し、
そこに新型対策ワクチンソフトをリリースしたら。
そしてそれが本命だとしたら。
厭な想像ですね。


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2009年4月28日火曜日

東風ふかば 今日も元気に 引き籠もり


新型インフルが国内で流行した時どう対処しましょう。
医者に行ってみたところで有効な治療法はありません。
それに病院の待合室が一番感染リスクの高い処ですよ。
医療システムを麻痺させ二次感染を助長するだけです。

もうこうなればいまさら慌てても仕方がありませんね。
致死率6%とは換言すれば生存率94%という意味です。
受験生風に言えば倍率1.06の競争率みたいなものです。
正しい生活習慣と免疫の善く保たれた身体が資本です。


うがい てあらい ひきこもり
くしゃみが出ても 医者行くな

生老病死は 人の常
居住まい正して 学び合い


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カゼが吹けばロシアがもうかる



WHOが警戒レベルをフェーズ4に引き上げましたね。
5カ国にわたる発生ですからフェーズ5でもいいのに。
これで非常事態宣言~FEMA体制が見えてきました。
非常事態ですから負債は凍結されて借金はチャラです。

混乱して治安が危うくなれば外周まで手が回りません。
他国の撤退に乗じて怒濤の侵略をするのは歴史の常識。
アラスカは遺棄されロシアに割譲される未来線もあり。
そうなればベーリング海峡はロシアの内海になります。


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2009年4月27日月曜日

新型インフルエンザの経済毒性



スペイン風邪の致死率は2%だったと言われています。
27日現在、疑い感染1614人同死亡 103人だそうです。
報道だけからいえば致死率は6%程で一貫しています。
世界を恐怖させたスペイン風邪の3倍の致死率です。

しかしメキシコ以外では死亡例の報告はありません。
実際にはどうなのか注意深く見守る必用があります。
しかし経済には早くも多大な影響を及ぼしています。


AMEXフルはその生物学的毒性もさることながら、
それが及ぼす経済毒性もまた格段に大きいようです。

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情報の拡散はウイルスとともに


NZや欧州でも感染例・疑例が出たと報道されました。
彼らは飛行機という閉鎖空間で長時間移動したのです。
スペイン風邪の時は第一次大戦中で移動は限られます。
現代ではどれほどの速さで拡散するのか実証実験です。

感染拡大の速度と規模は人の移動と接触に依存します。
GW中で人に歩き回ってもらわないと経済が回らない。
しかし、人が人混みの中を歩き回れば感染も拡散する。
マスコミはインフル情報と行楽情報を同時に報道する。

ウイルスとともに大量の情報もまた拡散し蔓延します。

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2009年4月26日日曜日

木の葉を隠すなら森の中

今世界中は新型インフルのアウトブレイク一色です。
世界は多くの枠を使って戦々恐々と報道しています。
今何か計画を進めている人にとっては良い陽動です。

とか、だったりして....

こういう時こそ情報の正しい収束が必用になります。
正しく知り、正しく予測して、正しく準備すること。

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“新型”インフルエンザです。


米国で豚インフルエンザのヒトへの感染が報告され、
メキシコでは多数の感染例死亡例が発生しています。
これはヒト-ヒト感染ですから、こうなればもはや
ブタインフルエンザと呼ぶのは適切ではありません。
(ブタ由来の)新型インフルエンザと呼ぶべきです。

1918年新型インフルエンザが世界を恐怖させました。
それがスペイン風邪と呼ばれるようになったように、
アメリカとメキシコで発生した今度の新型感染症は、
さしずめAMEXインフルとでも呼びましょうかね。
一次大戦中多くの兵士が罹患し被害が拡大しました。

 【ジュネーブ26日時事】メキシコと米国で豚インフルエンザの人への感染が確認されたことを受け、専門家による緊急委員会を開催した世界保健機関(WHO)のマーガレット・チャン事務局長は25日夜(日本時間26日早朝)、緊急委終了後に声明を発表、同委が「現在の状況が国際的に懸念される公衆衛生上の緊急事態になっている」とする認識で一致したことを明らかにした。メキシコと米国では感染者が増加。メキシコは80人以上が同インフルで死亡した疑いがあると発表しており、犠牲者の拡大が懸念されている。
 同事務局長は声明で、新型インフルエンザに対する警戒レベルの見直しについて「さらなる情報が必要」と指摘。6段階の「3」(人から人への感染が全くないか極めて限定的な段階)から「4」(人から人への感染が増加する兆候のある段階)への引き上げは見送った。また、緊急委は「すべての国が、通常とは異なるインフルエンザのような症状や深刻な肺炎に対する監視態勢を強化する」よう勧告。感染拡大を防ぐため、一段と警戒を強めるよう求めた。

【4月26日 AFP】英健康保護局(Health Protection Agency、HPA)は25日、英航空最大手ブリティッシュ・エアウェイズ(British Airways、BA)の男性客室乗務員が、インフルエンザに似た症状を示したとしてロンドン(London)市内の病院で治療を受けていると発表した。

 BAの広報担当者によると、この乗務員はメキシコ市(Mexico City)発のBA242便に乗務していた。同便は25日午後2時(日本時間同日午後10時)、ロンドンのヒースロー空港(Heathrow Airport)に到着した。 病院の広報担当者によると、男性は治療の結果、順調に回復しているという。

 英健康保護局は、この乗務員が豚インフルエンザ感染の検査を受けたのは予防的措置であることを強調し、「現時点で英国および欧州で豚インフルエンザの感染者は1人も確認されていない」と述べている。(c)AFP
 メキシコへの旅行から戻ったニュージーランドの高校生10人が、A型のインフルエンザ検査に陽性反応を示した、と同国のライオール保健相が26日、明らかにした。
 AP通信によると、オークランドの高校生13人と教員1人がインフルエンザに似た症状がみられたため、検査を行った。メキシコで死者が出ている豚インフルエンザに感染したのかどうかは不明で、世界保健機関(WHO)に検体を送って詳細に検査する。
 一行は25人で、25日に米ロサンゼルス経由でメキシコから帰国した。

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秋月便り


分離する世界


理想的には動かすことにかかるエネルギーは0です。
等速度運動の最中にはエネルギーは必用ありません。
加速時に必用なエネルギーは減速時に回収されます。
持ち上げたエネルギーは降ろすときに回収できます。

物事を動かし加速する時に投入されたエネルギーが、
物事が減速し静止するときに放出されるとしたなら。
炭素文明が起こって以来、投入されたエネルギーは、
炭素文明が滅びる時に断末魔の如く放出されるのか。

混ざったものを分離するにはエネルギーが必要です。
鉄鉱石を製鉄する時にはエネルギーが必用なように。
電気泳動は電場によって混ざったものを分離します。
二極化された場の力が濃度差を作り出すといえます。

邪悪と正義。恐怖と信頼。邪道と王道。破滅と創造。
最近の世界情勢は崩壊速度を加速しているようです。
情報洪水に流される人と整理される情報に集まる人。
そしてミルクとコーヒーは分離されていくでしょう。

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秋月便り

江戸の養育、江戸の教育 (2008/10/29)


今回のネタ本は『江戸の躾と子育て』(中江克己.祥伝社新書,2007)です。江戸の子育てはどのようなものだったのか、江戸の教育はいかなるものだったのか。この本から見てみましょう。

江戸の育児

胎教の重要性

江戸では子どもは大変大事に扱われました。そしてすでに母親の胎内にいるうちから、善い子に育てるための胎教の重要性が指摘されていたようです。江戸時代初期の陽明学者・中江藤樹は『鑑草』(1647)の中で「胎教というのは、子が胎内にあるうちの教えであり、その教えは母の心持ちと行いにある」ということを言い、自費と正直を根本とし、邪念を起こしてはならない。食物も慎み、居ずまいや行いは正しく。目にいやな色を見ず、耳に邪なる声を聞かない。賢人や君子の行いとか、父母に孝行を尽くし、忠と信を貫くなどの故事を記した書物を読むようにと、勧めていると言います。妊娠中の母親の心持ちが、子どもに影響するという考えですね。母親が穏やかで居住まいを正した生活をすることは、呼吸・心拍・内分泌などの母体の安定をもたらし、胎児にも安定した環境を提供することでしょうから、良さそうな気がします。

乳母の条件

出産後、大役を終えた母親は、七日間寝椅子に座らされ、安静を強いられたといいます。周産期死亡率も妊産婦死亡率も高かった当時ですから、大事に扱われたのでしょう。しかし今日から考えれば、七日間も身動きさせてもらえないほうがよほど大変なことのような気がします。エコノミークラス症候群になりそうです。もっともどの程度こうした処遇を受けていたのかはわかりません。さてそんな具合ですから、新生児は同じ頃に授乳中の女性から母乳を分けてもらうことになります。当時は乳を分けてもらうことや、乳母を雇うことはごく普通のことでした。『養生訓』で有名な貝原益軒は、『和俗童子訓』の中で、善い乳母の条件を以下のように述べているそうです。「心が穏やかで邪なところがなく、慎み深くて、おしゃべりでない者がよい。悪賢くて口がうまく、偽りをいったり、ひがみ根性の者はよくない。また、気が強く、自分の思うままに振る舞うほか、酒を好んで酩酊する者もよくない」と、まぁ酩酊しているような乳母には任せたくはありませんからね。

育児書の旺盛

生まれた子ども対する養育の手引き書も、沢山出版されていたようです。貝原益軒の弟子である医師・香月牛山は『小児必要養育草』(1703)で、「赤ん坊が生まれて六十日後、瞳が定まる。これからは人を見知って話をするように笑う(中国・王隠君の引用)」「赤ん坊が笑い、話するような仕草をするときは、乳人やまわりにいる人がその都度、赤ん坊に話しかけるようにすれば、赤ん坊もよく笑い、その人の真似をして話すような仕草をするものだ。このようにすれば、言葉を話しはじめるのが早いし、人見知りをせず、脳膜炎などの病気になることもない」と述べているといいます。

ところで、赤ちゃんの視機能というのはどの程度なのでしょう。かつては乳児は目が見えないなどといわれていました。しかし近年の乳幼児研究で、新たにいろんなことが分かってきているそうです。それによると、どうやら乳児は生後すぐに見えてはいる。しかし乳児の視機能は、まだ単焦点で、かつ識別間隔が大きく詳細さが荒いため、ある一定の距離にある、形が明瞭でコントラストのはっきりしたものが、大雑把に認識できる程度なのだそうです。その焦点距離はおよそ20~30cm。これは抱きかかえられ、おっぱいを吸っているときの母親の顔の位置ですね(別に母でなくてもいいですが)。目の位置と口の位置と形がおおよそ分かる。逆に言えば、生まれて初めて脳に到達する外界の映像は、余計な情報が背景に紛れ、まさしく母の笑顔であるといえましょう。逆に考えれば、それをまず認識するための合目的的な視機能であるともいえます。人間は  (・_・)  を顔と認識しますが、その根本がここにあります。

そのように視機能が鍛えられ、情報認識が進んできますと、物の形をより識別できるようになり、距離に応じて焦点を合わせられるようになり、周辺視野も広がって、周囲の物に興味を示し、それを目で追うようなります。それがおよそ3ヶ月頃。前述の指摘は概ね正しいといえましょう。この頃に赤ん坊が笑い・話しかけるような仕草をするが、それに応じて笑い・話しかけると、さらに赤ん坊はよく笑い、真似をして話すような仕草をする。これが子どもの言語機能や対人コミュニケーション機能の発達に善いのだ、という指摘ですね。

ところで最近の脳研究でミラーニューロンと呼ばれる神経系の存在が想定されるようになり、大きな興味を持たれているといいます。ミラーニューロンとは、相手の真似っこをする脳細胞ですね。相手が「笑う」のを見ると、と自分の脳の「笑う」という部分が活性化する。というものです。見よう見まね、といいましょうか、コピー機能といいましょうか、相手とシンクロする機能といいましょうか、よく分かりませんが、そんな意味があるのではないでしょうか。

ミラーニューロン(英: Mirror neuron)は霊長類などの動物が自ら行動する時と、その行動と同じ行動を他の同種の個体が行っているのを観察している時の両方で活動電位を発生させる神経細胞である。したがって、他の個体の行動に対して、まるで自身が同じ行動をしているかのように"鏡"のような活動をする。このようなニューロンは、マカクザルで直接観察され、ヒトやいくつかの鳥類においてその存在が信じられている。ヒトにおいては、前運動野と下頭頂葉においてミラーニューロンと一致した脳活動が観測されている。 (出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

ですから、笑顔と笑顔、お話しとお話しを互いに交換することは、牛山の言うように、言語機能や対人コミュニケーション機能の発達にとても大事なことで、牛山の主張を裏付けるものになりそうです。またこれは、別の視点から見れば、見ることと聞くこと、そして表情と話すことを同期させ協調させる練習でもあるのではないでしょうか。それに顔、特に口周辺は、脳の中でもかなり多くの部分を占めると言われます。当然、笑う・話すは脳への刺激となり、脳機能を活性化させ、その発達を促進するのではないかと想像されます。

Homunculus-ja.png

(「ペンフィールドのホムンクルス」Wikipedia より引用)

香月牛山は、赤ん坊が手を動かせるようになったら「拍手(てうち)」と「振頭(かぶり)」を教えよと言っているそうです。江戸の手遊びの代表は「ちょちちょちあわわ」だそうで、これは「ちょちちょち」と言って両手を叩き、つぎに掌で軽く口を叩きながら「あわわ」とやるものだそうです。取引が成立したり、和解が成立したときに「手打ち」をする風習がありますが。「拍手」を教えるは礼を教えるはじめだというわけです。これもまた、脳の中で多くの部分を占める口と手の運動と感覚を伴う遊びですから、脳への刺激となって発達を促す効果があるのではと想像します。

幼児期の養育の重要性

その他にも、幼児期の養育は重要であると思われており、先述の香月牛山は「百尺の松も、一寸のときによく世話をしたから、長いあいだ変わらずに緑を保っているし、七尺の人も一尺のときによく育てたからこそ、長寿を保つ、ということを知るべきだ」と説き、乳幼児期の養育がその人生の健康に大きく関わると協調しています。また牛山は中国の『千金論』から紹介し、子どもの衣類は親の古い着物を作り直して着せる。新しい着物、錦などを用いてはいけない。厚着をさせて暑くしすぎてもいけない。着せ替えるは戸障子を閉め、火を燃やして暖めるべき。衣類を火で炙って温めると暑すぎて皮膚を損なうため、あらかじめ人の膚で暖めて着せるのがよい。と勧奨しています。

子どもは、そもそも体積が少ないので熱容量が小さく、また、体積に比して表面積が大きいため、熱損失が多きいものです。逆に言えば熱が与えれれば熱が上がりやすいと言えます。その上、子どもは体温調節中枢が未熟でもありますから、つまり、冷えやすく、のぼせやすいわけです。衣類や着替えの際の前述の工夫は、体温維持に対する理にかなった配慮といえましょう。また、親が着古した着物を作り直して着せるというのも、新しい衣類より着こなれたもののほうが肌に優しいでしょう。へなへなな木綿って気持ちいいですからね。

溺愛・過保護の戒め

しかし一方では、貝原益軒のように、子どもは薄着をさせ、食事を少なくせよ。さ小児を温めすぎるのはよくない。天気のよいときはときどき外に出して、風と日光に当たらせる。皮膚は丈夫になり、血気が満ちて風や寒さに負けることはなく。病気になることは少ない。と、可愛がりすぎ過保護にすることが子どもをだめにすると、注意を喚起している人もいます。どちらが正しいとかというより、どちらも真理でしょう。子どもの特性に応じた配慮は必要ですが、逞しく育つために鍛えることも必要なのですから。益軒はさらに、「およそ小児を育てるのに、はじめからかわいがりすぎてはいけない」「かわいがりすぎると、かえって子どもをだめにしてしまう」と言い、父母がきびしくすると、子はおそれ慎み、親の教えをよく聞いて背かず、孝の道を行うようになる。父母がやわらかにして厳かではなく、かわいがりすぎると、子は父母をおそれないし、父母も子に教えることができない。子は戒めを守らず、父母を侮るから孝の道がたたない、と厳しく育てることを推奨しています。さらに、父が愛に溺れて、子どもの悪いところを知らなかったり、素行が悪くてもほめたり、技芸が下手でも上手いといってほめるのは愚かなことであり、子どもの善をほめると善をなくし、子どもの芸をほめると芸をなくす、と注意しています。

穏和に育てることの勧め

これに対し、脇坂義堂は『撫育草』の中で、「穏和に育てるのが一番いいと思う。子どもは知に暗いから、親があまりにきびしいと、恐れて親しまず、よいことも悪いことも隠すようになる。ただ怖がるだけで、心から服従しないのだ、なにごとも穏やかにいい聞かせ、よく呑み込んで行動できるように、温和に育て上げるのがよい」「悪いことをしたときに強く折檻するより、よいことをしたときに十分ほめてやればよい。幼な心に喜び、またほめられようと自然によいことを励み、よいことをしようと思う気持ちから、自然によいことが好きになり、ついには善にいたるものだ」「悪いことをしたときだけ折檻すれば、幼な心にも反発し、ただ折檻されることを恐れる。また悪いことをしたときには、これを隠してしられないようにするものだ。悪いことを隠すのは、大悪にいたるもとであり、しまいには嘘つき、悪人になるから、心から納得させず、ただ怖がらせるだけでは子どものためにならない。十分に穏和にいい聞かせ、教え育てるのがよい」と、穏和に育てることを勧めています。こういった「厳しくすべき」「穏やかにすべき」という相反するような立場からの意見は昔から言われてきたことなんですね。

江戸時代は現在に比べて乳幼児の死亡率も高く、捨て子も子殺しも堕胎も多かったのですが、だからこそ親だけではなく皆で子どもを大事にしました。子どもが丈夫に育つよう願い、様々な風習や行事があったようです。今では迷信と思われるようなこともありますが、そこには子どもの成長への願いがあります。それに、それらの風習があるということは育児のマニュアルがあるということです。行事があるということは折々にふれ子どもに関心をはらう機会があるということです。

江戸の教育

寺子屋事情

江戸時代の教育と言えば、寺子屋が思い浮かびます。「寺子屋」という呼称は上方のもので、江戸では「手習所」ということが多かったといいますが、ここでは現在よく知られた呼称である「寺子屋」で通したいと思います。

江戸の寺子屋は私塾で、今のような公的な義務教育機関ではありません。寺子屋の就学年齢はおよそ5~8歳ころで、卒業時期は特に定まっていた分けではなく、13~14歳、あるいは18歳頃まで修学することが多かったといいます。寺子屋1校辺りの生徒数は、10人から100人だったようで、幕末期の江戸の人口はおよそ100万人、寺子屋はおよそ1500校。全国では約15000校あったといわれます。現在の東京都の人口がおよそ1300万人、東京都の小学校数がおよそ1300校であることを考えても、相当に教育熱心であったことが伺えます(もちろん単純な比較はできませんが)。当時の世界を見渡してみても江戸期の日本の教育の広がりは突出しており、1850年頃の就学率は70~86%だったといわれ、これは、同じ時代のヨーロッパ諸国の主要都市での就学率が20%程度かそれ以下だったこととくらべ、かなりの高率でありました。

そのおかげもあって、識字率は、江戸市中で男女とも70~80%、武士階級ではほぼ100%であったと推測されます。これもまた他の国からは想像できないほどの高い識字率であり、幕末に日本を訪れた外国人は、子守の女の子が暇つぶしに本を読む姿を見て驚嘆したといいます。

寺子屋の師匠

寺子屋の師匠には、僧侶・神官・御家人・諸藩士・医師・書家・商家の隠居・豪農の知識人などが多く、本業の他に寺子屋で教えを説いていました。当時、「教える」という行為は、お金に換えることができないほどの神聖なものと考えられていたため、師匠が報酬を要求するということはなかったといいます。中には月謝を取る専業の師匠もいましたが、それでも「お金のために教えているのではない」というプライドがあり、払わなければ教えないというようなことはなかったそうです。とはいうものの、親たちは「お礼」をするのは常でした。しかしこれに対しても師匠は習字の発表会を開いて、赤飯や菓子を振る舞うことで還元していたようです。師匠になるのに資格があるわけではないので、誰でもなることはできましたが、それ相応の実力がないと、評判が悪く、弟子がつかないためやっていけませんでした。知識が豊富で、教え方が上手く、人柄がよい師匠が人気があったというのは、世の常のようです。たいがい一人の師匠について学びましたから、師匠yは一生の恩師として「お師匠様」と敬愛されました。

多種多様な「往来物」

寺子屋では「読み」「書き」「算盤」を習いました。寺子屋の勉強は実用的な知識が多く、それを身につければ、さしあたり世間に出て仕事をするのも、暮らしてゆくのも困ることがありませんでした。最初に覚えるのは「いろは」です。ものごとの「いろは」を習うというわけですね。使う教材は「往来物」と喚ばれる教科書が多かったようです。往来物とは、往復書簡の形をとった手紙文の手本のことで、これで漢字や熟語、敬語の挨拶や時候の挨拶など、言葉遣いや礼儀、生活に必要な知識を学ぶのでした。最古の往来物は平安後期、藤原明衡が書いた『明衡往来』であるとされます。「往来物」の種類は数多く、実に七千種類もあったといいます。そのうち千種類は女子用であったというのですから。女子の教育も熱心であったといえましょう。

往来物の代表は『庭訓往来』という教科書で、一月から十二月までの手紙の往復の規範文を集めたものです。子どもはそれを通して、敬語や時候の挨拶を学びました。『庭訓往来』は各地方で出版され、地方ごとの特色が盛り込まれていたようです。『絵本庭訓往来』は、公家の新年の挨拶にはじまり、衣食住、職業、風俗習慣、動植物などを北斎の挿絵付きで学ぶことができました。他にも、年中行事を扱った『風月往来』などもありました。

当時、武家の子は武士、商家の子は商人となるのが当たり前でしたから、それぞれの職業に密接に結びついた教科書もありました。その代表としては『商売往来』があります。これは商取引用語、数字、貨幣単位、商品名、商人心得などが記載されており、商人の多い地域で採用されていたようです。その中の商人の心得について述べたところでは、商人にとって重要な心得は「始末」「柔和」「正直」であるとされ。始末とは、浪費せず、つつましく暮らすこと。柔和とは、挨拶や応対に誠意を尽くし、顧客の心をつかむこと。正直とは、裏表のないこと、と教えています。今のご時世、誠に耳が痛いのではないでしょうか。『商売往来』は社会常識についてよくできた教科書だったため、たんに商人向けというより、一般の教科書として用いられたようです。同じようなもので『問屋往来』、さまざまな職業、特に職人に必要な知識、技術、心得などをまとめた『諸職往来』、大工・左官など職人言葉や文字を集めた『番匠往来』、職人の道具や度量衡を測る道具と、その使い方をまとめた『万福百工往来』などがありました。農村では『田舎往来』『農業往来』『百姓往来』などが使われ、農地、農具、耕作、栽培、農民としての心得などを学び、とくに村役人ともなれば触書の伝達、年貢計算、納入書類作成などのため「読み、書き、算盤」は必須でした。漁村は漁村で『船方往来』『浜辺小児教種』で船乗りに必要な知識を学び、船大工用の教科書もあったといいます。

また、地名・地理を学ぶ教科書としては、諸国の国名を列挙した『国尽』。江戸市中の地理については『御江戸名所方角書』『江戸往来』、京都の地理地名なら『都名所往来』、大阪の地理地名は『浪速往来』というように、各地ごとに出版され覚えやすく工夫されています。算術については『塵却記』が有名で、上巻では、算盤を使った加減乗除の四則演算。中間は生活に即した応用問題。下巻は平方根や立方根の求め方などが扱われていました。算盤が普及したのは江戸後期ですが、これは消費経済が発達したことによるものと思われます。また、異色なところでは『身体往来』があり、五体の名称と機能、五臓六腑についても記してあります。その他、儒学なら『四書五経』『六諭衍義』、人名なら『名頭』『苗字尽』、文字は『千字文』、歴史なら『国史略』『十八史略』などが教科書として用いられ、源平合戦、大阪の陣、島原の乱なども題材となった。古典文学として『唐詩選』『百人一首』『徒然草』なども学んだようです。教育内容は、反幕教育をしないかぎり基本的に自由だったようです。

寺子屋では、いたずらもさかんで、子どもたちはいろんないたずらをしては叱られていたようです。師匠によって罰が与えられるのは、行いが悪く他人に妨害を加える場合、怠惰で勉強が遅れている場合、喧嘩や言い争う場合、他人をだましたり物を盗んだりした場合などでありました。どんな罰が与えられたかというと、叱責(しかる)、説諭(いいきかせる)、留置(居残り)、謹慎(師匠の傍らで正座)、食止(飯ぬき)、線香(線香と水を入れた茶碗を持って立たせる)、鞭撻(竹刀で手足を打つ)といったもので、便所掃除の罰もあったようです。面白いのは片手に火の点いた線香、片手に水の入った茶碗を持たせて立たせる、あるいは正座させるというものです。火の点いた線香が短くなってくるのは緊張しますし、水が入った茶碗を持っているので、身動きもできません。あまりにひどい場合は「破門」ということもあったようですが、よほどのことでなければ破門になることはなかったそうです。面白いのは「あやまり役」を順番で決め、師匠に叱られる時には一緒に謝るのだそうで、師匠のほうもあやまり役に免じて許してやろうと、納めどころ作りやすかったといいます。


コミュニケーション能力と生存能力を付与する

江戸時代は、武家の子は武士、農民の子は農民、職人の子は職人、商人の子は商人になるのですから、将来の目標は明確であり、そのために身につけるべき目標もまた明確でありました。したがって、自分の能力に応じて自分なりに努力し、時間を掛けながらでも目標を達成すればよかったのです。そのため、寺子屋でも同じものを一斉に勉強するのではなく、銘銘が銘銘の進み具合で学習し、その一人一人に応じて師匠が指導していました。エデキュケーション・オン・デマンドというわけです。

また、往復書簡集である往来物を使った教育や、それぞれの職業や市井の風俗を題材とした教育というのは、とても意味深いものだと思います。コミュニケーションの作法を学びながら読み書きを習得し、しかも実学も同時に身につくといういうわけですから。当時の人が、対人コミュニケーションのスキルと、社会の中で身を立てるためのスキルを体得することを、いかに重視していたかということが伺えます。

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秋月便り

【空気支配】人材兵站線への間接アプローチ (2008/10/27)


場の空気に目的を忘れる

集団には集団の雰囲気があります。会議が始まるまでは「この目的を確認して、ここの同意を取り付ける」などと目的を持って挑んでも、「場の雰囲気に流されて」本題までたどり着けなかった、などということが生じることは、みなさんご経験があるのではないでしょうか。特に日本の社会では、「空気」とも呼ばれるこの「場の雰囲気」は実に大きな位置を占めるように思われます。個人個人ではそれぞれに意志を持って望んでいるのに、集団でいるとその場の雰囲気に同調してしまうのは、その場における共鳴が発生して協調しようとする力がそれぞれに起こるためでしょう。例えば、初対面で、しかも今後の関係をよくしたいと思っているもの同士が会議をした場合、和やかに会を進行したいと願います。その場の雰囲気をよくすることは議事を円滑に進める手段なのなのです。ところが往々にしてそれが目的に取って代わり、良い関係を構築すること自体にが目的であるかのような集団錯覚に陥ることがままあります。多大な労力をみんなが注ぎ込み、なかなか主題が進行しないと感じていても、場の雰囲気に合わせるのに流されがちになります。その場は異常に盛り上がりますが、会議の後は結果が残らないので徒労感が残ります。

この例では、場の雰囲気を良くすることがその場での共通のテーマになってしまっている時に、本題を進めるための突破口を開く決断が必要だったわけです。本来、場の雰囲気を読んで、それに応じた適切な対処をすることは、ある意味高度な機能です。後述しますが前頭前野の機能と言えます。しかし、本来の目的を果たすべく、その雰囲気に突破口を開く決意もまた前頭前野の機能なのです。その時の本来の目的に沿って、場の雰囲気の要請に打ち克つことは、場の雰囲気に合わせることよりも、より高尚な行為といえましょう。しかし、それはなかなか難しいものでもあります。場の雰囲気、「空気」の掟に敏感な日本人ならなおさらです。

「空気読めない」

「空気読め」という言葉はネット上でよく目にします。この「空気」については、山本七平氏の『「空気」の研究』という著書があります。「空気を読む」は人間関係上のコミュニケーションにおいて重要な要素であり、前頭機能でもあります。しかし、「空気読めない」ことが恥ずかしいこと、けしからんことと認識され、嘲りの対象となると、、途端に様相は違ってまいります。「空気読め」がスローガン化すると、ここの状況に応じた多様性を「場に合わせることはよいこと」「場に合わせないのは悪いこと」といった二元論的に落とし込み、場の雰囲気に合わせることが暗黙の「掟」となります。するとこれは、集団において、付和雷同することや日和見すること、雰囲気に迎合することを増長させることになりかねないおそれが生じます。つまり雰囲気による支配を強化することになるということです。これって、いろんな集団の中に起こっていませんか。場の雰囲気の合わせるということが、主体的な行動としての「場への調和」ではなく、"脊髄反射"的な「迎合」となれば、それは衆愚です。「KY(空気読めない)」をキャンペーンしたのは大手新聞社だったと記憶していますが、これは知ってか知らずか国民の衆愚化を促進する一石となる恐れがあるのではないかと危惧します。皆が雰囲気という支配者の下に従い、主体的の考え主体的に行動することを抑制するような作用があるのではないか、という懸念です。

だからといって、「場の空気など気にするな」ということが全面的に適切だということを言いたいわけではありません。これもまた、人の行動を二元論的な迷宮に落とし込むことになります。要は、場の雰囲気に調和し、場の雰囲気を良いものにする工夫と、必要なことを主張し、場が合目的的に最適化するような工夫との、適切な制御が大事なのです。そしてまたこれが、真に前頭前野機能であるといえます。「神仏を敬い、神仏を頼らず」という言葉がありますが、それになぞらえるなら「空気を読み、空気に流されず」というようにありたいものです。

双曲割引

さて、場が盛り上がり良い雰囲気になっている。しかし本題から外れ、本来の目的を達成するにはベクトルがズレてしまっている。この空気を破り主題に誘導する一声をあげようかとも思うが、なかなかその勇気が出ず、ついつい場の雰囲気に流されてしまう。この場合の、気にはなるが踏み切れなくて先送りする心理は、双曲割引の心理に相当します。双曲割引といのは、将来予想される価値を、現時点において評価する際、どの程度に評価するかという理論です。それによりますと、人は先の利益より目の前の利益のほうを大きく勘定し、先の不利益より目の前の不利益を過大に評価する傾向があるといいます。先の利益より、今の欲望。先の後悔より、今の回避。人はえてして短絡になりやすいと言えます。先般の例で言えば、本来の目的を果たせず後悔することよりも、目の前の雰囲気を壊すことの緊張が過大に評価され、行動に躊躇が生じたと言えましょう。試験の前の日に部屋を片付け始めるとか、後の損害のほうが深刻なのに、それよりも目先の緊張回避・現実逃避が過大評価されて優先されてしまう心理です。

前頭前野と大脳辺縁系

前頭前皮質は脳にある前頭葉の前側の領域で、一次運動野と前運動野の前に存在する。

(中略)

この脳領域は複雑な認知行動の計画、人格の発現、適切な社会的行動の調節に関わっているとされている。この脳領域の基本的な活動は、自身の内的ゴールに従って、考えや行動を編成することにあると考えられる。

(中略)

前頭前皮質には、より報酬を得ることのできる長期的に満足のいく結果を得るために短期的な満足感を先送りにするという選択肢を制御する能力を持っている。この報酬を待つ能力は、ヒトの脳の持つ最適な実行機能を定義する重要な要素の1つである。
(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

PQとは、Potentiality Quotientの頭文字をとったもので、潜在能力指数という意味である。2005年にはHQ(Humanity/Hyper-Quotient )に改称された。
前頭前野がもたらすヒトをヒトたらしめる意識や知性、知能、感情制御、社会性をもたらす機能の総称である。
PQの発達は8才がピークで子供のPQを高める方法には、読書(音読)、計算、会話、豊かな人間関係、遊び等が指摘されている。
また、跳ね返すことが出来る程度の適度のストレス、躾けや武道の鍛錬なども脳内ホルモンのドーパミンが分泌して、前頭連合野の働きを活性化させる。
(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

脳にはさまざまな部分があります。そのうち、前頭前野と呼ばれる部分の機能は、広く状況を認識し、未来を予測し、それに応じた最適な対処行動を想定し、かつ、規律や慎み、忍耐をもって行動を適切に制御するものです。一方、大脳辺縁系と呼ばれる部分は、情動、意欲などの源泉であり、生物としての根源的欲動を司るところです。例えていうならば、辺縁系がエンジンのような動力系で、前頭前野はスロットル/ブレーキといった制御系であるといえましょう。再び先ほどの例を持ち出しますと、雰囲気を読んで協調すること自体は前頭前野の機能です。しかし緊張を回避しようとするのは辺縁系の要請です。そこでさらに、本来の目的を遂行すべく、緊張回避の誘惑に打ち克って、その場を本来の目的に沿うものに引き戻すことは、優れて前頭前野の機能と言えます。

車の運転も、初心者はアクセルやブレーキがぎこちなくギクシャクしていますが、優れて上達すれば、スロットルの微調整だけでストレスなくスムースに運行できようになります。脳もまた訓練によって前頭前野の機能が発達しますと行動の発動と抑制の適切な制御ができるようになり、状況に応じて、あるいは未来を予見してスマートに行動できるようになりまます。行動や振る舞いの勇敢さ、優雅さ、辛抱強さに関係するということもできましょう。ただし、前頭前野は脳の進化という点から言えば最も新しい部分なので、放っておいても本能的に機能が保たれるわけではなく、優れて機能させるには鍛えなければなりません。

前頭前野機能不全人格

では、この前頭前野の機能が損なわれるとどういうことが起こるのでしょうか。適切な制御という前頭前野の機能が損なわれるわけですから、大脳辺縁系の働きが制御を受けずに発動されやすくなります。具体的には、情動の抑制が欠如し、喜怒哀楽や欲望が適切な抑制を受けずに、なまのまま発現しやすくなります。嬉しければ場を考えずにはしゃぐ、怒れば癇癪を起こす、哀しければ泣きわめく、楽しければ上得意といった塩梅ですね。また、欲望の制御や適切さの工夫が弱いので、短絡的な欲求充足、即時満足の希求があからさまになります。身勝手で我が儘で、待てない我慢ができないという状態ですね。さらに、未来を展望し計画性をもって地道に忍耐強く積み上げるという機能も至りませんから、根気が無く飽きっぽくて、短絡的、刹那的、場当たり的な行動になりやすくなりますし、能動的、積極的な問題解決指向も失われますから、「善きに計らえ」的な受動的な姿勢になります。その上、不安や緊張、フラストレーションに対する耐性も低いものですから、我慢や辛抱が効かず、混乱したり興奮したりパニックを起こしやすくなります。他人の心理を読み取り、場の雰囲気の意味を理解し、その中で適切な協調を調和を図ることも苦手となりますから、空気が読めず、人の気持ちの分からない、無責任で身勝手な行動になりやすいでしょう。しかもそれによって立場を悪くしても、なぜそうなったのか察しが悪いので、周りのせいであると解釈して、邪険にされた、いじめられたと逆ギレすることもでてきます。実に始末の悪い具合です。

教育は人材の兵站

前頭前野の機能は脳挫傷などの外傷や、脳出血・脳梗塞、あるいは脳腫瘍などの病気で損なわれ、前述のような傾向を伴う人格変化を来すことがあります。しかし一方では、生来的、妊娠中、あるいは幼少時からの生育上の様々な要素による影響が想定されますし、教育による機能の獲得と生活習慣による機能の維持もまた重要な要素であると思われます。ことに教育の果たす役割は、前頭前野の機能を鍛える上で、たいへん重要なものであることでしょう。この場合の教育とは、生活全般を通して経験する、社会的教育を含む広義の教育であります。

社会機能から見れば、このような前頭前野の機能が善く発達した(鍛錬された)人材が多い方が望ましいと言えます。逆に、前頭前野の機能の不十分な人間が多ければ、道徳観や公序良俗が乏しく、社会機能が滞り、トラブルが多く、不正や腐敗がはびこり、治安や風紀も乱れます。ですから、前頭前野の機能を優れたものに高める教育の土壌は、個人の成長のみならず社会機能の維持の上でも極めて重要なことであり、前頭前野の機能の優れた人物を社会に供給し続けることが教育の目的の一つでもあります。

人材の兵站線への間接アプローチ

ではここで悪意を持った考えをしてみましょう。敵対する国、あるいは脅威となりうる警戒すべき国があるとしましょう。その国と正面からケンカしてやっつけてしまおうという方法が直接アプローチだとすると、間接アプローチとは「正面衝突を避け、間接的に相手を無力化・減衰させる戦略(wikipediaより抜粋)」であります。敵の城を包囲して兵糧攻めにするとか、相手の国に麻薬を蔓延させて社会を荒廃させるとか、対人地雷をばらまいて社会保障負担を増加させるとか、石油などの資源輸送商船を攻撃して補給線を破壊するとか、反体制勢力を支援し社会不安を増大させるとか、いろいろあります。いずれにせよ意図するところは、相手の食糧、エネルギー、人的資源の兵站を枯渇させることを目的としているものです。

間接アプローチは直接アプローチよりも有効です。敵対関係である相手と正面から衝突する場合も非常に有効な戦略ですが、相手と敵対関係でない場合でも応用が利きます。例えば、相手が軍事的には同盟国だけど、経済的には脅威となる競合国であるという場合、あからさまに攻撃性を向けるわけにはいきません。できるだけ穏やかに衰退していただきたいという場合にも間接アプローチはその力を発揮します。つまり交戦状態にない場合も目に見えない形で攻撃できる戦略であるわけです。相手国の国内食糧生産を壊滅させ自国からの食糧供給に依存させるとか、相手国のエネルギー資源の購入先を独占するとか、為替相場など経済のルールを変更して相手国の金融や産業に打撃を与えるとか。そして、相手国のメディアを支配したり、教育を破壊したりして、優れた人材の供給を阻害することもまた、人材の兵站線への間接アプローチであるといえます。

脳に対する環境汚染

話しは前後しますが、前頭前野機能の発達を阻害する要因とはなんでしょうか。脳はデリケートな臓器です。その中でも前頭前野は傷害されやすい部分だということを聞きます。酒を飲んだ時にまず麻痺し始めるのがこの部分であることは、多くのみなさんが身に覚えのあることでしょう。あるいは火事に巻き込まれ一酸化炭素中毒になった時も前頭前野はやられやすいといいます。つまり、外的要因によって傷害されやすいという点と、教育によって機能を獲得してゆくものであるという点の、2つの側面から前頭前野機能の発達は阻害されやすいと言えます。具体的にはどのような要素が関与し得ると想像されますでしょうか。これからあげますことは、一つ一つが実証されたものではありません。関与する可能性を羅列したものですので、ご注意願います。

まず、生来的な面で言えば、遺伝的要素が関与するかもしれません。今日的には排卵誘発剤の使用や人工授精といった医療についても正しく評価されるべきでしょう。また、妊娠中お母さんのお腹にいる間に母胎を通して受ける影響も関与するでしょう。出産時の影響、赤ちゃんの時の哺乳、栄養、養育、関わり方などについては。長期的な研究が難しいでしょうが、大きな影響があるのではないかと想像されます。子供を取り巻く物理環境も関与するかもしれません。放射能、電磁波、寒暑乾湿、冷暖房、照明など昼夜明暗のリズムなど。現代生活は多種大量の化学物質に囲まれていますから、化学的環境の影響は無視できないでしょう。大気汚染や大気中・室内空気の化学物質の影響、保存料・防腐剤・調味料など食品添加物や、野菜・穀物などの残留農薬など径口的に摂取するものの影響は重要です。また、洗剤、除菌剤、芳香剤、あるいは建築用溶剤接着剤塗料といった、吸入や肌への接触と言った形で曝露するものもあります。

教育に対する環境破壊

前頭前野など脳の発達は(広義の)教育によって促進されるものですから、生活環境や社会構造の変化は前頭前野機能の発達に影響を与えるだろうことは十分推測されることです。一日24時間の中で経験したことで、脳の情報処理様式は構築するわけですので、生活リズム、生活スタイル、食生活、礼儀作法、規律といった生活様式の影響は非常に重要であります。核家族化、共働き、子供の孤立といった養育環境の変化も影響するでしょう。同世代の子供たちとの遊ぶ機会、特に集団で行う身体機能を伴うような遊び、それに遊び場や遊びの時間。あるいは社会の風潮や社会的価値観の変化といった社会環境の影響のあるでしょう。

学校にあっては教育の内容、教師の質といった直接的な教育の影響ももちろん重大なものです。これは単に知識がどうだとか、成績がどうだとかというものではなく、学校教育が前頭前野機能など脳機能の発達に及ぼす影響という意味です。ですから教室の構造や掲示物の様子、先生の服装や口調・態度・立ち居振る舞い、どのような状況でどのような対応をしたかなど、広汎な要素を含みます。子供は教えられたことだけ学ぶのではなく、経験したことから学ぶのですから。こうした子供を(子供だけではありませんが)取り巻く社会環境、学校環境、家庭環境は、前頭前野機能を健全に育み、鍛えるに十分なものであり続けているでしょうか。

「ゲーム脳」は"トンデモ"なのか

感覚器官を通した影響も予想されます。目から見る情報の質や量、耳に聞く情報の質や量、嗅覚、味覚、皮膚感覚など、感覚器を通した情報は脳にもたらされ、脳の情報処理を誘導するわけですから。特に現代ではテレビ、ゲーム、ネット、ケータイといった情報機器を通して曝露される情報の量は莫大なものです。その量は、情報の質とともに十分吟味されるべき要素だと思います。昔から「テレビを見るとバカになる」と言われました。その都度、「テレビを見てもバカにならない人もいる」とか「証拠はあるのか」とか「テレビは勉強になるところも多い」「結局は個人個人が見過ぎないように気をつけるべき」とかという反論が出て、結局は水掛け論のようになって有耶無耶になってしまいます。最近では「ゲーム脳」という言葉がセンセーショナルに報じられ、それに対してこれまた反論が出され、「最新の脳科学を誤解している」「『ゲーム脳』はトンデモ本だ」と言われます。ここで特徴的なのは、仮に悪影響があったとして、その悪影響を供給している人達と、その悪影響を享受している人達が一緒になって反対するという構造です。いわば加害者と被害者が共犯関係を作ってしまうといえる点でしょう。

多層複合的攻撃

以上、羅列しましたような要素、あるいはそれ以外の要素を一つ一つ抽出して分析しても、おそらくそれで何か分かるものではないでしょう。ゲームを例に取れば、ゲームのプレイ時間だけではなく、ゲームのスタイルや、舞台設定、時代設定、内容、画像のめまぐるしさ、キャラクターの質、視覚的な衝撃、情緒的な衝撃、興奮の質と量、報酬が得られる条件、達成の目的などなど、様々な要件がからんでいますから、これらを評価することは大変です。結局は影響があるとかないとか、水掛け論になって有耶無耶になるでしょう。そうする間も、事態は継続することになります。個人的には、それがテレビであれゲームであれ、またスリルであれ笑いであれ(残酷なものならなおさら)、慢性的持続的反復的に脳に対して過剰な興奮を強いることは、脳に対する破壊的な負荷であるだろうと思います。また別の面では、一日が24時間であることは拡大しないのだから、他の体験から様々なことを学ぶ機会を奪うことになるだろうとも思います。

そもそもこれほどの多因子的かつ複合的問題を要素に分けて分析してみたところで全体が分かるものでもありません。化学物質などの曝露、社会共同体機能の破壊、メディアを使った脳への影響など、一つ一つは有意な違いはなくとも、複合されれば全体への影響は無視できないものになることだって十分あり得ます。単純な例えで言えば、お菓子や乳製品一つ一つへのメラミン混入量が微量でも、複数の経路から摂取すれば、その人の体内において健康被害を引き起こしかねないというのに似ています。もしもこれが人材兵站線への間接アプローチであれば、実に巧妙なものであると言えます。別に証拠があるわけではありませんので、仮定の話ですが。まあ兎に角、よその国が国民の質が低下し、智恵のある者、勇敢な者、忍耐強い者、協調性のある者が少なくなり、見通しの暗い者、欲深い者、身勝手な者、癇癪を起こしやすい者、我慢の効かない者、雰囲気に流されやすい者が増えてくれるのは好都合だと考えるところもあるでしょう。

教育と学習

仮に(なんて言ってますが、私はアメリカの占領政策だと思っていますが)、こうした人材兵站線への間接アプローチがあったとしましょう。では、どうしたらいいのか。「それはけしからん。謝罪と賠償を!」と言ったところで受けたダメージが元にもどるわけではありません。「責任とって俺たちを立派な人間にしろ!」と言ってもそれはちょっとできない相談です。我が身にどんな不幸が降りかかろうと、それがどんな理不尽なことであろうと、それを乗り越えるのは自分自身にしかできません。「○○のせい」と言っている間は(例えそれがその通りであっても)先には進めません。自分自身の人生を歩んでいくことは自分自身にしかできないのです。

教育は対象に施すものであり、教育される者はそれを受ける立場です。教育する環境が破壊されてしまえば教育を受ける者はひどく不利を被ります。しかし学習は違います。学習する者は、それを主体的に行いますし、学ぶ対象は人であり、本であり、歴史であり、自然であり、それこそ無限にあります。自ら学ぼうとする意志があり、習おうとする意欲があれば、自分で自分を教育することができます。そのように取り組めば、与えられるだけでは見えなかったものが見え、出会えなかったような人とも出会えることでしょう。「天は自ら助くる者を助く」と言います。「叩けよさらば開かれん」とも言います。自ら行動して学びましょう。そしてそれを日々実践しましょう。量はいつか質へとかわり、見事な人間になります。そして後世のために、失われようとしている教育の環境をあらたに作り上げましょう。

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