2009年3月31日火曜日

やさしい「戦闘教義」講座 1 戦闘教義とは

え~、戦闘教義について勉強しておりまして、これは私自身のための備忘録です。

戦闘教義(battle doctrine)とは

「ドクトリン(doctrine)」とは、(1) 教義、教理、(2) 主義、学説、(3) 政治・外交上の原則、という意味で、もともとの原義は「教えること」です。[doc(教える)]+[tor(人)]で博士,医師。[document]で「教え示す物」。

戦闘教義(battle doctrine)」とは軍事用語で、戦いで使用される「」「戦法」のことをいいます。「得意な戦法」とか「得意技」というと判りやすいでしょうか。「バトル・ドクトリン」とか「コンバット・フォーメーション」と呼ばれることもあります。旧日本軍では戦闘教義という言葉ではなく、白兵主義や火兵主義といったように「主義」という用語を用いていたそうです。でも、主義と言ってしまうと動的な印象が薄まって、なんか教条的な感じを受けますね。

戦闘教義とは得意技、得意な戦法です。言い換えれば「必殺技」「必勝パターン」ですね。野球でいえば6回までにリードを奪って絶対的な信頼を置くセットアッパー・リリーバーに繋ぐとか。サッカーでいえばサイド攻撃からクロスを送って長身フォワードが合わせるとか。1点さえ取ればあとは完璧に守りきるとか。相撲なら左上手を取って引きつけての寄りとか。この形になったら絶対勝つというパターンですね。猪木でいえば延髄斬り、ドラゴンボールでいえばカメハメ波、ウルトラマンでいえばスペシウム光線、仮面ライダーでいえばライダーキック、野茂でいえばフォークボール、星飛雄馬なら大リーグボール、星一徹ならちゃぶ台返し....
アニメなどのお話しの世界では、どんな苦境にあっても必殺技一発で勝ってしまいますが、実際の戦いとなりますと、そこに持ち込むまでの駆け引きや組み立てがあります。(→戦術)
また、スポーツ解説者が「う~ん、型がありませんねぇ」なんていうのはこの戦闘教義のことをさしていることも考えられます。

私は必殺技といえばこの人を思い出しますね。

常に一本を取りに行く柔道と、小柄な体からの切れ味鋭い技の数々、豪快な一本背負投が得意技であることから「平成の三四郎」の異名をとった。全盛時の古賀の一本背負いのキレ味は凄まじく、気づいたときには相手は宙を舞っていると言われていた。実際に、全盛時のバルセロナオリンピックの時は、技を完成させるまでにわずか0.4秒であったという。
古賀自身が著書で述べているとおり、1991年の世界選手権を迎える頃には古賀の一本背負いは研究され尽くしており、技の幅を広げる必要があった。そこで、古賀は同じ担ぎ技系統の袖釣り込み腰、釣り込み腰、首投げを習得し、一本背負いに入るパターンを増やすことも考えて、巴投げや小内刈りを習得、磨きを掛けた。その効果が発揮されたのが翌年のオリンピック優勝であり、1995年の世界選手権での全試合一本勝ちであった。つまり、一本背負いを軸として相手がそれを警戒すれば別の技を仕掛け、別の技を警戒すれば一本背負いで仕留めるというスタイルを作り上げた。
(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)


2009年3月27日金曜日

地方の壊死

日本の地方はクルマ社会です。一家に一台どころか成人一人に一台ということも決して珍しいことではありません。地方の企業や役所に勤務する人は数キロ~数十キロの通勤圏から毎日クルマで通っています。鉄道やバスの路線は不採算線をどんどん縮小しており、自治体は高齢者の交通手段を確保するため福祉バスを走らせるなどいろいろ工夫を凝らしています。これは現在の地方が、広汎な地域をパーソナルな移動体で結ぶというモデルで出来ているためです。そしてその根拠となるのが、石油と道路と自動車です。そういうモデルで地方を構築するために手間と予算が投入されてきました。石油を供給するために必要なのがガソリンスタンドですが、広汎な地域をカヴァーするためスタンドは多く点在する必要がありますが、一方では利用者の密度は低いので利益率はよろしくない。その上石油を持ってくるのに輸送料がかかるので、地方のガソリンは都市よりも割高なのが常です。景気が良く、皆が自動車を利用して出かける時代ならそれもいいでしょう。しかし景気が悪化して財布の紐が固くなれば、スタンドは値下げ競争を強いられ収益が圧迫されます。デフレ圧力ですね。それは都市部でも同様でしょうが、利用者密度が小さく原価の高い地方のスタンドのほうが深刻です。これに今度は原油高が加わればさらに消費は冷え込み厳しいものとなります。デフレの後のハイパーインフレ。地方のガソリンスタンドは事業として成り立たなくなるでしょう。

 昨年10月に営業を停止した青森県内のガソリンスタンド最大手の柿本石油(本社・青森市)について、青森地裁は26日午前、破産手続き開始を決定した。破産管財人の弁護士によると、負債総額は約102億円。債権者はリース会社や元社員ら247人。しかし、灯油券やプリペイドカードを購入していた一般の消費者は含まれていないという。
(アサヒ・コム)

鉄道やバス路線が不採算部門を切り捨て事業網のリストラクチャリングを計ったように、ガソリンスタンド網にも(個別事業体としてではなく総体として)リストラクチャリングが起こるでしょう。そうなると利用者にとってはガソリンを詰めるために遠くのスタンドまで行かなくてはならないという非効率な状況が起こってきます。さらに原油価格が上がる(=通貨価値が下がる)ことになれば交通費は上がります。月1万の交通費も原油価格が2倍(=通貨価値が1/2)になれば月2万円、原油価格が10倍(=通貨価値が1/10)になれば月10万です。その時、給与は2万上がるでしょうか、10万上がるでしょうか。「ガソリンが10倍になんてならないだろう(笑)」と思っていませんか。現在ポンドやドルがものすごい勢いで刷られているように、円もすさまじい勢いで刷られます。さらに中東で何事か起これば「原油10倍」ということはあっという間に起こりうることなのです。そうなれば公共交通機関の貧弱な地方は遠距離通勤ということが成り立ちません。社員職員が通勤できなければ事業もなりたちません。人は都市に流入し過疎地はますます捨てられるでしょう。人が少なくなればますますガソリンスタンドは成り立ちませんから過疎化のポジティヴフィードバックがかかります。もちろんこのような事態になれば物価の上昇は石油価格だけに留まりません。その場合も輸送料が上乗せされますから都市部より地方のほうが物が高くなります。

もう一つ深刻なことがあります。地方は日本の食糧の生産地であり供給地です。ところがそこで動く耕耘機もトラクターも田植機もコンバインも石油で動いています。また生産物を運ぶ軽トラックや長距離を運ぶトラックもまた石油で動いています。燃料供給スポットであるガソリンスタンドが破綻したり石油価格が上昇すれば日本の食糧生産や食糧の供給が成り立たなくなります。石油高によって生産コストが上昇すれば生産物価格も高くなり、不況の中、外国産食糧に対して競争力を失うでしょう。作っても売れないということが起きるというわけです。石油が暴騰して買えなくなれば、最悪、耕せない、収穫できない、運べないということが起こります。一年かけ丹誠込めて育てた生産物でも買ってもらえなければ価値は生じません。運べなければ価値は生まれません。自家消費したり知人に配ったりしても余ったものは、ただ自然の摂理に従って腐ります。生産と消費の適正循環が維持できなければ豊作貧乏ということが起こります。現在、雇用不安、失業問題から就農を志す人が増えています。しかし一方ではこうした要素によって離農圧力が高まりかねません。

 青森県板柳町を流れる岩木川などの河川敷で、計数百キロのリンゴが不法投棄されているのが見つかった。腐敗が進んでいる実も多く、リンゴの処分に困った人が捨てたとみられる。
 昨年、同県のリンゴは過去最大のひょう被害を受けた。膨大な量がジュースなどの加工用に回されたが、加工業者も過剰在庫でリンゴの受け入れを制限。農家の在庫リンゴが行き場を失った。
 リンゴを肥料にする薬の購入費助成も自治体が試みているが、「4月になると気温が上がって在庫リンゴの腐敗も進み、さらに投棄される恐れも」と同町経済課。「リンゴ王国」にはつらい春の訪れだ。
(アサヒ・コム)

クルマ社会である地方の移動物流にとってエネルギー供給スポットが無くなったり、エネルギー価格が高騰して経済価格で入手できなくなることは兵站の途絶です。地方は食い物があって有利じゃないかと思われがちですが、現在のモデルでは物やエネルギーの兵站という点で都市よりも脆弱です。生体においては血流が途絶えれば組織は虚血性の壊死を起こしますが、日本では地方から機能不全に陥り壊死してゆくでしょう。地方で生活の基盤を失えば都市に流入します(同様のことを世界規模でみれば途上国から先進国へ難民が発生します)。都市では治安は悪化し応仁の乱の京の都のようになるでしょう。

では、どうしたらいいか。

まずは省エネですね。一人一人がパーソナルにクルマで移動するよりは、電車やバスでまとめて輸送するほうが効率がいい。自動車の乗り合い、自転車通勤は身近な工夫です。もっと効率がいいのは移動しない輸送しないです。まったく移動しない、まったく輸送しないというわけにはいきませんから、[移動機会]×[移動距離]、[輸送機会]×[輸送距離]を効率化して運用することです。そのためには事前の段取りが必要です。情報を制御して必要な移動輸送を必要な時と場合に実行する。その事前の段取りも集まって会議をするよりは通信で話をつける。無駄な会議、無駄な出張、無駄な仕事はそぎ落とす。家でできる仕事は家でこなす。物のやり取りは近いところ優先。情報化による超高効率化。その上での「食とエネルギーの自給自足・地産地消」です。種も肥料も地元で調達。出来たものも地元で消費。風力・水力・バイオマス。地元でエネルギーを作って地元で融通し合う。そして余剰の換金作物で交易です。どのみち石油はいずれなくなるのですから。

2009年3月26日木曜日

テレビの未来

これまでの半世紀、テレビは家庭用エンターテイメントの王様でした。しかし近年ネットを介してのコンテンツ提供がめざましい発達をみせ、新しい時代の到来を予感させます。そんな中、テレビの未来について面白い記事を見つけましたので御紹介したいと思います。

(前略)
テレビ関係者と視聴者双方に、「今後、決められた時間に番組を視聴する機会は大きく減ると思うか」と質問。この問いに対し、視聴者側は「大きく減ると思う」「そうは思わない」と答えた方がそれぞれ半数程度だったのに対し、テレビ局側はほとんどが「そうは思わない」と回答したのだ。ちなみに、番組を生放送で見ていた視聴者への即時アンケートでは、「大きく減ると思う」が圧倒的に多かった。

決められた時間にテレビを見るというスタイルが崩れたら、CM収入を得ながら無料で放送を行うという、現在のテレビ局のビジネスモデルは根本から揺るがされる。そうなっては困るという気持ちが、このようなズレとなって現れたのだろうか。

さすがに、そこまであけっぴろげに理由を述べるのは憚られたのか、テレビ局側が「そうは思わない」理由として挙げたのは、「テレビの持つ即時性という利点は、報道やスポーツ中継に適している」「テレビ局には良質なコンテンツの制作ノウハウがある」「権利処理の複雑さやそれに伴うコストを考えると、番組を無料でネット配信するのはビジネスモデルとして成り立たない」などが代表的なものだった。裏返してみれば、彼らはネット動画では、これらの問題を克服することは難しいと考えているということになる。

上記の問題は、今後のネット動画にとって、それほど致命的な問題ではない。即時性については、ネットはテレビにそれほど遜色ないレベルに達しているし、日本全国にあまねく情報を届けるという目的を満たすには、電波で情報を飛ばす従来のテレビ放送よりも、インターネットの方がはるかに適している。だからこそ、地デジの難視聴地域対策で光ファイバーが使われているのだ。
(中略)
テレビ番組は、映像と音声で構成されている。ネット動画も同様だ。規格の違いや伝送路の違いはあっても、それは本質的なものではない。あくまで「映像と音声の集合体」であり、本来は同じもののはずなのに、テレビ局側の出席者の発言を聞いていると、少数の例外を除き、「テレビ局が作ったコンテンツ」「ネット動画のコンテンツ」を分けて考えている(あるいは分けて考えたいと思っている)ように見受けられた。おそらく、現在のテレビが持つ大きな影響力に対する誇り、そしてクオリティの高いコンテンツを作っているという自負によるものだろう。だが現在の視聴者は、特に若者になればなるほど、テレビへの依存、ある種の忠誠心は薄れてきており、どちらが面白いか、あるいはどちらが便利か、という基準で選別を行う傾向に、ますます拍車がかかっている。その現実を、テレビ局側はまだしっかりと呑み込めていないのではないか。
(後略)
(Phile-web)

テレビ業界の人たちは、従来のビジネスモデルを維持したいという思いから現実の状況を否認しているように感じます。まぁテレビ番組の中でテレビを否定するようなことは立場上言えないというのもあるでしょう。しかしハードディスクレコーダーの出現はすでに“CM飛ばし”を一般化させてしまっており、テレビCMのコスト・パフォーマンスは低下してしまっています。

こうした中、報道や番組作りにおける不正である“誤報”や“ヤラセ”などは致命傷となりかねません。そのため最近の様々なテレビにまつわる不祥事についても自浄努力をアピールしています。
 テレビ愛知(名古屋市)が別会社に制作を委託したバラエティー番組で「やらせ」があった問題で、同社は25日、常務の郡修児報道制作局長を解任するなどの社内処分を発表した。
 この問題は、1月16日に放送した番組「松井誠と井田国彦の名古屋 見世舞」で、出演者が通行人に感想を尋ねるコーナーに、通行人を装ってメーク担当の女性スタッフ2人が出演していた。視聴者の指摘で発覚した。同社は当初、「社員は関与していなかった」としたが、その後社員が収録に立ち会っていたことが判明した。
 番組はその後打ち切られ、テレビ愛知は社内に調査委員会を設置、経緯や原因を調べていた。
(産経ニュース)
 日本テレビ放送網の久保伸太郎社長は16日、報道番組「真相報道バンキシャ!」が虚偽証言に基づき岐阜県庁の裏金づくりが続いていると報道した問題で、責任をとって辞任した。久保氏は記者会見で「重大な監督指導不行き届きの責任をとりたい」と述べた。
(アサヒ・コム)
 岐阜県庁の裏金をめぐる報道番組「真相報道バンキシャ!」の誤報問題で、日本テレビは24日、取材の経緯や誤報に至った問題点、再発防止策をまとめた調査結果を公表した。
 その中で同社は、「取材の基本を忘れ、情報提供者の話を鵜呑(うの)みにして、十分な裏付け取材をしなかった」と総括。
(中略)
 同日、記者会見した前社長の久保伸太郎相談役は「(ネットでの安易な情報収集が)すべての発端だった」と述べた......
(2009年3月24日19時27分  読売新聞)
暗に「ネット情報は信用できませんよ」というメッセージのようにも見えますが、まぁ、ネットが誤報の伝言ゲームなのはその通り。

もちろんテレビ業界も生き残りに向けて努力しているようです。政府に「景気を良くしたいなら、カネをばらまいて地デジチューナーや地デジ対応テレビに買い換えさせなさい」という提言をしています。
 日本民間放送連盟(民放連)の広瀬道貞会長は、25日に開かれた自民党の「e―Japan特命委員会」(小坂憲次委員長)で、地上デジタル放送(地デジ)対応機器の普及へ向け、仮に5000万世帯に2万円のクーポン券を配布する1兆円規模の支援策を実施すれば、約7兆6000億円の経済波及効果があるとした試算結果を披露した。
 試算は民放連に委託された電通総研がアンケート結果から推計した。計1兆円のクーポン券を配布すると、対応テレビやチューナーなどの購入で約3兆8000億円の消費が発生し、工事費などへの波及効果が見込めるという。
(2009年3月25日20時14分  読売新聞)

即時性という点ではスポーツなどのイベントもの、映像美という点では紀行ものなどはやはりまだテレビならではというところがありますね。今回のWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)なんかは、マスコミ業界全体が全力で盛り上げに来ていました。実際決勝は素晴らしいゲームだったようです。スポーツといえば「東京マラソン」がテレビのためのお祭りになっていることには、スポーツのエンタメ化、マスコミによるスポーツの搾取という感じがして閉口しましたが。

ところで、今後デフレ対策としてリフレ政策になると貨幣価値は暴落する。相対的にすべての物価は高くなり、原油価格・エネルギー価格は高くなるが、食糧までも手に入らなくなると社会的混乱や暴動が起こりかねない。そこでそれを抑えるために安い外国産食糧を輸入し食糧価格やサービス価格は下げ、また娯楽としてデジタル多チャンネルテレビを与えて、社会的不満を吸収しようとする、という予測があります。(参考:「WBC連覇とパンとサーカス」)

外国産の安い食品とデジタル多チャンネルテレビというのも、なんともお安い「パンとサーカスだなぁ、という感が否めません。お金をかけずに楽しいことは、別にテレビだけではありません。運動する。遠足をする。物を作る。絵を描く。俳句を作る。お喋りをする。それに勉強して知識を得る。消費以外にも楽しいことは沢山あります。昔からそうやって来ましたから。

2009年3月25日水曜日

オンラインレセプトの壁

 政府・自民党は24日、具体的な治療内容や投薬名、診療報酬点数が書かれたレセプト(診療報酬明細書)のオンライン請求を平成23年度に完全義務化するとした政府方針について、新たに例外規定を設けることを決めた。この結果、23年度からの完全義務化は先送りされることが正式に決まった。
 同日開かれた自民党の行政改革推進本部などの合同会議で、内閣府の規制改革推進室が、例外規定の設置方針を含む「規制改革推進3カ年計画」の改定版を提示し、了承された。
 「3カ年計画」の改定版では、レセプトのオンライン請求の例外規定について、現在の「現行以上設けない」との表現を「原則現行以上設けない」に変え、新たな例外措置を設けることを容認。オンライン請求への対応が難しい医療機関に対しては「地域医療の崩壊を招くことのないよう配慮する」とも明記した。
 新たな例外規定の具体策については「3カ年計画」の改定版に示されなかったが、与党内では、レセプトの取扱数が少ない小規模医やコンピューターの取り扱いに不慣れな高齢開業医などを対象に、義務化の期限を先送りする案が浮上している

先日、馴染みのお医者さんが「オンラインレセプトが義務化されれば対応できないので、(引退の)潮時かもしれないな」とおっしゃっていました。とても善い熟練の先生で、この先生が辞めてしまうのはとても大きな損失だと感じさせられます。

保険診療において医療費は患者から定率額をもらい、残りは保険機構に請求します。従来紙ベース(手書きあるいは紙出力)で請求していましたが、それを電子化(フロッピーディスク(!)による請求)し、さらにオンライン化して情報処理の効率化を図ろうというのが「オンラインレセプト」というわけです。

この時、医療機関においてオンラインレセプトを導入する障壁となるのが「導入コスト」と「習熟の手間」です。特に、高齢で電子機器・情報機器に馴染んでいない医師にとっては「あと10年くらいしかできないだろうに、今から高いお金をかけて導入してもなぁ」とか「今まで問題なくやれていたのに、この年になって難しそうなものを覚えるのは億劫だ」とか思っても不思議ではありません。

熟練医師というせっかくの人的資源を失うのは社会的な損失です。しかし情報化による処理業務の効率化は時代の要請でしょう。悩ましい問題ですね。

要するに、安くて超簡単なオンラインレセプトシステムがあればいいんじゃないでしょうかね。どこの医療用ソフトベンダーも「低コスト」「簡単操作」を努力しているのだろうとは思うのですが、そちらはそちらで医療業界という狭い市場で利益を上げなければいけない訳だし....。難しいところです。

2009年3月23日月曜日

自動車業界の未来

この不況で自動車業界は大変です。自動車産業は裾野がえらく広いので幅広い範囲に影響を与えます。

 ドイツの自動車大手ダイムラーのツェッチェ社長は17日の決算記者会見で、高級車「メルセデス・ベンツ」の2008年販売台数は前年比5%減少したものの、超小型車スマートは同35%増と好調だったことを明らかにした。
 独自動車大手ダイムラーは22日、アラブ首長国連邦(UAE)の政府系投資会社「アーバル・インベストメンツ」から19億5千万ユーロ(約2500億円)の出資を受け入れると発表した。
 アーバル・インベストメンツの出資比率は9.1%となり、ダイムラーの筆頭株主になる。両社は温暖化防止対策として需要増が期待される電気自動車の開発で協力するほか、若者を対象とした研修センターをUAEに設立する方針という。

 ダイムラーは主力の高級車「メルセデス」が苦戦しており、とても厳しいようです。メルセデスの作る車は実に見事なものですが、ものの質が全てを決めるわけではありません。腕のいい職人も時代に押されて店をたたむということはどこにもありました。IBMが売られるというようなインパクトに等しい出来事も起こりうるかもしれません。そうなればダイムラーの株主はうまいことアラブに売りつけたといえるでしょう。

一方、同じダイムラーの「スマート」が好調なように、小型車、経済車、低燃費車へのシフトは続きそうです。小さくて車重が軽い方が燃費はいいし税制上も有利ですからね。そんな中、1979年、車両本体価格47万円という破格のお値段で登場し一世を風靡した経済車スズキ「アルト」みたいなことが世界を舞台に起こりそうです。インド・タタモータースの「ナノ」、日本円にして約18万円です。しかしこれもなかなかとたいへんそう。

 タタ・モーターズは2008年1月、自動車ショーで4人乗りの小型車「ナノ」を発表。1台10万ルピー(約18万円)での販売を予定しているとし、インド発の「超低価格車」誕生として世界中の話題をさらった。さらにその数週間後、今度は米フォード・モーター(F.N: 株価, 企業情報, レポート)から高級車ブランド「ジャガー」と「ランドローバー」を総額23億ドルで買収すると発表し、再び関係者の注目を集めた。

 しかし、当初計画から約半年遅れて、近く市販される予定の「ナノ」にとって、足元の景気後退と生産面での制約が成功への足かせとなる可能性がある。

 「ナノ」が初めて公開されて以降、同社にとっては逆風が続いている。生産を予定していた工場は地主とのトラブルで建設地変更が余儀なくされ、売り上げ不振で約7年ぶりの赤字を計上し、株価は約75%下落した。また同社の信用格付けは、借り入れに依存した拡大戦略が金融危機の影響を受けやすいとして引き下げられた。

 2月のインドの自動車販売台数は、金利低下などを背景に過去4カ月で最高水準を記録したが、消費者心理は依然冷え込んだままだ。

 アナリストらは、タタが近い将来に値上げを行うと予想するが、利益率の低さや生産面での制約、冷え込んだ市場心理を理由に、「ナノ」プロジェクトが損益分岐点に到達するのは5─6年先だと指摘している。

インドが超低価格による経済性路線なら、中国は低価格電気自動車で経済性を謳い今後のイニシアティヴを狙うようです。

 持続可能なモビリティーに向けた次世代自動車として、燃料電池車とともに世界の自動車会社による各種電気自動車の開発競争が激しくなってきた。いわゆる電気自動車(EV)、ハイブリッド車(HV)、そしてプラグインハイブリッド車(PHEV)である。

 いずれの車種もバッテリーとしてリチウムイオン電池を搭載する。したがって、このリチウムイオン電池の開発が次世代自動車のカギを握っているわけだ。そのため、自動車会社各社は電池の開発をめぐり関連企業との戦略的パートナー関係を構築するなど、その動きは世界中で活発化してきている。

 2005年における世界のリチウムメタルの生産量は2万1400トンであった。そのうち主要生産国はチリが8000トン、オーストラリア4000トン、中国2700トン、ロシア2200トンそしてアルゼンチンが2000トンである。リチウムメタルの埋蔵量は、世界トータルで1340万トンのうち、未開発のボリビアが540万トン、生産量で最大のチリが300万トン、アルゼンチン200万トン、ブラジル91万トンで、南米4カ国で、実に84%の1131万トンを占める。

 中国は110万トンで、残りは数10万トン規模である。燃料電池車に必要な白金が南アフリカ共和国に、そして石油が中東に偏在していると同じようにリチウムも南米に極端に偏在し、地政学的な不安定性を抱えているのである。埋蔵量の1340万トンについては、米地質調査所(USGS)によると1100万トンと、より低く評価されている。
自国領内に石油資源の偏在があったアメリカは石油内燃機関文明でイニシアティヴを握りましたが、国内油田が無限であるはずもなく、世界中の石油生産と流通を傘下に置くべく膨張しました。バッテリーカーを中心に据えようと思えば電池です。それがリチウムイオン電池ならリチウム覇権が必要になり、中国は世界中のリチウム鉱山を抑えようと手を伸ばさねばならないでしょう。リチウム自体は温泉の成分表にも入っているように日本にも湧いて出ますが、密度が違うので効率的に利用するには密度の高いほうがいいですね。ところでリチウムは石油と違って燃えて二酸化炭素になるわけではありません。日本は鉄鉱石を輸入していますが、スクラップという形で国内の鉄は増えています。これと同様にリチウムも回収再生という方法が考えられるでしょう。

さて日本はというとすでにハイブリッドで実績を上げています。最近ではホンダが「インサイト」を200万円を切った価格で投入し販売が好調なようです。トヨタも3代目「プリウス」の投入前に現行型を値引きしました。日本はハイテク高級型の経済路線のようです。これに乗っかって政府も後押しするみたいです。

【ニューヨーク=山川一基】トヨタ自動車の米販売子会社は11日、米国でのハイブリッド車の販売台数が100万台を突破したと発表した。日本から3年おくれて00年に発売した「プリウス」はこれまで70万台超売れたほか、「レクサス」シリーズのハイブリッドセダンなども投入し、9年で達成した。トヨタが世界中で売ったハイブリッド車170万台超の過半が米国で売れたことになる。
 平成21年度からスタート予定の「エコカー減税」に対し、自動車業界の期待が高まっている。
 ハイブリッド車(HV)や電気自動車などの環境に優しい「次世代車」の自動車取得税と自動車重量税を減免するというもので、現在販売されているHVなら10万円強の値引きになる見込みだ。
 減税額は「通常の販売では困難な値引き額」(大手メーカー幹部)とされ、業界では自動車需要の記録的な落ち込みを救う起爆剤となるのではないかとみている。
 新しい自動車税制は、減税幅が自動車の環境性能レベルによって100%、75%、50%の3段階に分かれている。販売されているHVのほか、電気自動車や燃料電池車などは取得税と重量税がともに100%免除される仕組みだ。

プラグインハイブリッドなら、電力が不足する時間帯に駐車中の車で発電して電力を供給し、電力が余剰になる時間帯にはバッテリーに蓄電しておくということも見えてきます。電力利用の平準化で効率を電力利用効率を高めることもできるでしょう。もはや車は経済性ぬきには売れず、低価格=インド、中間価格=中国、高級=日本という棲み分けになるのではないでしょうか。経済性と省エネルギーをキーワードに自動車業界は廻りそうです。もはやアメリカ車はもちろん欧州車も厳しいかもしれません。それはアブダビに買われたダイムラー同様、資本の面からも。では最も経済的なのは何か。それは車を使わないことです。車を使う必要性を最小限に抑えた社会がもっとも有利なのです。無駄な移動や無駄な物流を必用としないためには、事前の打ち合わせが重要になってきます。段取りを付けてから必要最小限の使用にとどめる。そのためには情報化されていることが必用になります。情報化が移動物流を変え、自動車産業を変えるでしょう。自動車業界もたくさん売るというモデルは過去のものとなるでしょう。

2009年3月22日日曜日

補足 : 誰がバイオディーゼルを殺したか

少々煽動的に言い過ぎた感がありますので反省しまして、補足します。

ある程度の品質を確保すること自体は必要です。何の規制もなく、便乗しただけのでたらめな物が出回れば、これまで真面目に取り組んできた人達まで迷惑をかぶりますから。

要は必要な検査や装置設備については国や自治体が補助するなりして、これまで取り組んできた人達にさらなる負担を強いないよう配慮するのが妥当なところでしょうか。節約だけ、ケチケチだけでは物も金も循環しないし景気も持ち直しません。国や自治体はただばらまくだけではなく、何に資本を投下するのが将来のため子孫のためなのかを考えて、出すところには出すべきでしょう。そしてそれは分散型教育、分散型エネルギーを促進する方向であるべきです。

2009年3月19日木曜日

誰がバイオディーゼルを殺したか?

2009年03月19日 18:46

 てんぷら油などの廃食油を再生したバイオディーゼル燃料(BDF)を使用して山形市を走行していた中心市街地100円循環バス。七日町商店街などが取り組む環境、資源循環活動のシンボルの1つだったが、先月末から、循環バスへのBDFの提供ができなくなっていることが19日までに分かった。燃料にBDFを10%混合していたが、法改正に伴い、BDFを混合する場合、専用装置の設置などが必要になったため。

 循環バスには、七日町商店街振興組合が商店街に設置しているBDF製造プラントで製造されたBDFが、燃料の軽油に混合する形で使われてきた。飲食店など商店街で出る廃食油を商店街で再生し、商店街で使用するという域内循環のモデルの1つでもあり、昨年秋から月に100リットルのBDFを使用してきた。

 しかし、2月25日に施行された改正揮発油等品質確保法で、バイオ燃料とガソリン・軽油を混合し自動車燃料として消費・販売する場合、専用の混合装置の設置や事業者登録、品質確認が義務付けられることになった。濃度管理などが不適切なバイオ混合燃料により、自動車に不具合が生じる例が確認されていることから、不具合の起きない5%未満の混合率で安定的に供給できるようにするため。

 これまではバスの運行業務を行う山交バスが、環境保護活動への協力の一環としてBDFを購入し、燃料を混合する作業を行ってきた。現状を続けるには、山交バスが装置を設置し、事業者登録や品質確認を行わなければならない。装置の導入には数百万円の負担が必要になる。

 一方、プラントを設置する七日町商店街振興組合が混合作業を行うことになると、危険物の取り扱いに関係する届け出の変更や許可の必要が出てくる可能性がある。100%BDFで運行すれば同法の対象外になるが、その際、循環バス運行には月1000リットルのBDFが必要になる。BDFの総生産量は約3500リットル(2月)しかないため、1000リットルを循環バスに回してしまうと、すでにBDF100%で運行している市長の公用車や商店街の運搬車両、ごみ回収のパッカー車への提供分が不足してしまうため、循環バスへの提供を休止せざるを得なくなった。

 商店街の関係者は「循環バスへの使用は、BDF事業のPRにも一役買っていたため残念だが、今後も市民の協力を得ながら廃食油を回収し、資源循環に努めていきたい」と話していた。

      まとめ
○ガソリンにエタノール、軽油にBDFを混和する事業者が増えつつある。
○こうした混和行為は、適切でない場合、自動車や環境へ悪影響を及ぼすおそれがある。
○現行品確法は、一次供給者以外が、流通段階においてバイオ燃料を混和する行為を想定していない。
○したがって、品確法を改正し、流通過程においてバイオエタノール等を混和する事業を営む事業者が製造する石油製品について品質確保を図る必要がある。
→混和業者に対し、既存の一次供給者と同様、品質確認義務を課すことが必要。
→不適切な混和の未然防止や義務違反の再発防止など、規制の実効性を担保するため、(そのために過度な規制とならないものとして)事前規制の仕組を設けることが必要。
○なお、周辺油種の混和などの不正事例については、引き続き執行強化に努める。

バイオディーゼルは(BDF)日本では廃食用油を元に製造される場合が多いです。これまで捨てていた、ひどい時には下水に流していた使い古しの食用油を回収し、多くはエステル化処理して、ディーゼルエンジンで使える軽油類似の燃料に再生するものです。確かに原料となる廃食用油は均一ではありませんから、出来上がったBDFの品質にもバラツキが生じやすいし、そのBDF製造事業体によっても品質に差があるようです。悪意があれば意図的に低品質な燃料を作ることも可能です。そのため、ものによって差があるのはけしからん。消費者に安定した品質の燃料を提供する必要がある。というのが今回の改正品確法の趣旨です。

しかしその基準をクリアできるのはある程度の資金のある業者にならざるを得ません。結局はこれまで成立してきた小口事業体主体の地域分散型燃料供給の試みを潰すことになるでしょう。ある程度の規模を持つ事業体がBDFを囲い込み、生かせばまだしもそのまま握りつぶすこともあり得ます。燃料業界のための規制という印象を免れません。ちょうど石油業界の利権のために電気自動車を抹殺したアメリカの事例のようです。

えぇー、私はディーゼル車に乗っております(最近ではディーゼル車を確保するのも大変になりました)。そしてバイオディーゼルを使っています。100%です。これまで3年間で一度燃料フィルターを交換しました。バイオディーゼルは製造途中で燃料を“水洗い”するのでいくらかは水分を含んでおり、それが燃料フィルターを詰まらせるのだそうです。その場合始動性が悪くなり、アクセルを踏み込んでも詰まるような感じになって最悪エンジンが止まります。別に爆発するわけではありません。頻繁にあるわけではないし、これは私はバイオディーゼル使う際のやむを得ない出費と思っています。絶対故障しない車をお望みならお勧めしません。しかし車は壊れるもの手入れしながら乗ればいいと考える人にとってはそんなものと割り切れる範囲ではないかと思います。だって野菜だって本来バラツキのあるもので均質な方が不自然なものだし。質の悪いものは自然と淘汰されるでしょう。

回収再利用といった循環事業は回収して集めるだけでは成り立ちません。消費してくれる人がいてこそ成り立つものです。供給できず消費者まで届けることができなければ事業は死にます。廃油は廃油のまま捨てられることに戻るでしょう。

健全なる精神は健全なる肉体に宿る

・・・我々民衆は、投票権を失って票の売買ができなくなって以来、
国政に対する関心を失って久しい。
かつては政治と軍事の全てにおいて権威の源泉だった民衆は、
今では一心不乱に、専ら二つのものだけを熱心に求めるようになっている―
すなわちパンと見世物を・・・

ユウェナリス『風刺詩集』第10篇77-81行


共和制から帝政に移行したローマは、市民が政治に参加しなくなり関心を持たなくなりました。為政者は民衆を政治的盲目に置いておくため、広大な属州から集められた莫大な富の一部を食糧と娯楽(パンとサーカス)として民衆に与え、民衆はただ与えられる食糧と娯楽に耽って面倒を見てもらうことを当たり前と考えるようになりました。民衆は富と贅沢、美貌と恋愛を競い、そこでは「優れた身体(健全なる肉体)」は自己顕示欲を満たすという欲望の対象となっていたのです。

ローマの風刺詩人、デキムス・ユニウス・ユウェナリスが『風刺詩集』第10編に詠んだ一節“orandum est, ut sit mens sana in corpore sano”は、英語で“A sound mind in a sound body”和訳で「健全なる精神は健全なる身体に宿る」と訳されていますが、本来上述のような時代背景の中から生まれた風刺詩の一節であります。ユウェナリスはこの中で、人々が幸福を求め神に祈る、富・地位・才能・栄光・長寿・美貌は、それを得ることで皮肉にも身の破滅を招く願いである。もし祈るとすれば「健やかな身体に健やかな魂が願われるべきである(It is to be prayed that the mind be sound in a sound body) と語っており、これが「健全なる精神は健全なる身体に宿る」原意であります。

……強健な身体に健全な魂があるよう願うべきなのだ。
勇敢な精神を求めよ。死の恐怖を乗り越え、
天命は自然の祝福の内にあると心得て、
いかなる苦しみをも耐え忍び、
立腹を知らず、何も渇望せず、
そして、ヘラクレスに課せられた12の野蛮な試練を、
サルダナパール王の贅沢や祝宴や財産より良いと思える精神を。

私は、あなたたちが自ら得られることを示そう。必ずや
善い行いによって平穏な人生への道が開けるということを。

ユウェナリス『風刺詩集』第10篇356-64行



ユウェナリスは、自らの顕示欲のために優れた身体能力や見事な肉体美を欲するくらいなら、優れた精神性こそ求めるべきである。優れた精神性とは、死の恐怖を乗り越え長生きに執着せず、怒りの感情や欲望を制御し、贅沢や快楽を追求することよりも苦労を厭わぬことに価値を見ることであるといいます。つまりユウェナリスは、奢侈贅沢の欲望に耽溺し堕落するよりも、慎ましく身体と精神の健やかなることを祈り、克己静謐に努めることが平穏への道であると説いて、当時のローマの世情を皮肉っているのです。

この言葉は、富国強兵国民国家の時代には、兵の身体能力増強と士気向上、それに規律の維持のために引用されました。

「健全な精神は健全な肉体に宿る。虚弱な身体は我侭によって造られる。虚弱な体躯の人が新鮮で剛毅な心をいつまでも持ちつづけることは難しい。それ故、健康で強健な体躯は貴重である」
(普墺戦争、普仏戦争、第一次世界大戦で豪腕を発揮したドイツのフォン・デル・ゴルツ元帥)
教育において“強い心”を育成するためには肉体的鍛錬が必要であることを説いている。
「健全な肉体条件を持たない指導者は、通常、困難な情勢を克服しようとする意志を失うものである。体力に弱点を持つ指導者の弱気は組織にたちまち蔓延する。だからこんな指導者はただちに辞職させなければならない」
(「大戦の回想」マーシャル米大将、1976年)

 教育者は健康な姿を学生に見せなければならない。健康不良の姿を被教育者に曝すことは避けたいものである。


確かに指揮官自身の自己鍛錬として、身体と精神の頑健さの維持は重要な要項でしょう。これは本来、軍をあずかる指揮官が自らに課す目標であったのです。しかしこれが身体鍛錬を課すときの標語(スローガン)のように使われ、あるいは管理のための方便として使われ、戦後はスポーツ教育などに流用されていきます。「健全な精神は健全な肉体に宿る!」と教条的に強調して、理に適わぬ特訓やしごきを課して満足しているような教官・コーチならばなんともお粗末なものです。

一方これに対して「健全な身体でないと精神も健全じゃないというのか」「障碍者差別だ」「身体が不自由でも立派な人がいるぞ」と言う人が出てきます。文脈を汲まず我田引水のように二元論的解釈をして「差別反対」とか「弱者養護」とかに結びつけたがるような人です。ちなみに障碍者とか弱者とかにだって(健常者と同じように)性格の悪い人間はいます。そもそもそのような反論は原意を曲解し、そのまた言葉尻を捉えての解釈術ですし、その動機が説教がましさに対する反発という程度ではあまり生産的ではありません。

ではここで原意から離れて、通常言われる「健全な精神は健全な肉体に宿る」はどう解釈すべきか、ということについて考えてみましょう。確かにスポーツで鍛えた人が皆健全なる精神を持つわけではありません。ジムでトレーニングすれば健全なる精神を獲得するのかといえばそうでもない。また、障害を持つ人にも病気がちの人にも健全な精神を持っている人はいるという主張もありましょう。こうしたことは反例になりそうですが、反例があるからといって「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」という言葉は間違いだ、そんなことは一顧に値しないと断じてしまうのもおかしな事です。実際、身体的に丈夫ではなく具合が悪ければ、それでもなお精神の充実を維持するのは困難なことです。精神的不安の最たるものが健康、貧困、人間関係ですし。そうしますと結局は「AならばB」というような法則ではなく、部分的真実を含んでいる記述という、当たり前のことに落ち着きます。

そもそも「健全なる肉体」とは何かとなりますと、これが人によって受け取るイメージが異なるのではないでしょうか。まずは良く鍛えられた頑健な身体をイメージします。しかしウエイトトレーニングとプロテインとステロイドでビルドアップされたマッチョなボディが健全なのかといわれると疑問ですね。かたや九十歳になっても畑仕事をしているおばあさんもいます。つまるところ「健全なる肉体」とは、必要にして十分な身体能力と高度に安定した生理機能であると解釈するのが妥当ではないかと思います。するとこれは障碍者であっても達成しうるものです。「健全なる精神」となると、もっと様々な解釈が成り立つでしょう。いろんな意見があるでしょうが、これをユウェナリスに立ち返って考えますと、欲望追求、快楽追求の逆になりますから、「健全なる精神」とは質素節制、自己抑制、欲望や怯えの克己、勇気ある行動、忍耐、勤勉といった要素を含むものと解釈されます。そうしますと「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」とは、このような精神の健全性を維持するには身体の健全性が前提となる、となります。ところが面白いことに「健全なる肉体」を維持するには欲に流されず、怠惰に落ちず、節制に努めなくてはなりません。つまり「健全なる肉体は健全なる精神が作る」ものでもあるのです。するとこれは良循環という動的相互関係になります。良循環があれば悪循環もある。「健全性」とはその善い循環を維持する努力といえましょう。「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」とは目指すべきベクトルを示す言葉と解釈するのが良さそうです。するとこれはまた原意の欲望や快楽を追求し堕落を戒める意味につながってきます。

2009年3月18日水曜日

大学の自壊

  大学の道は、明徳を明らかにするに在り、
  民に親しむに在り。至善に止まるに在り。

  古の明徳を天下に明らかにせんと欲する者は、先ず其の家を斉う。
  其の家を斉えんと欲する者は、先ず其の身を修む。
  其の身を修めんと欲する者は、先ず其の心を正しうす。
  其の心を正しうせんと欲する者は、先ず其の意を誠にす。
  其の意を誠にせんと欲する者は、先ず其の知を致す。
  知を致すは物を格すに在り。


大学(だいがく)とは儒教の経書の一つ。南宋以降、『中庸』『論語』『孟子』と合わせて四書とされた。もともとは『礼記』の一篇であり、曾子に作られたとも秦漢の儒家によって作られたとも言われる。
朱子学において自己修養から始めて多くの人を救済する政治へと段階的に発展していく儒者にとっての基本綱領が示されているとして重要視された。その内容には「明明徳」「親民」「止於至善」の三綱領と「格物」「致知」「誠意」「正心」「修身」「斉家」「治国」「平天下」の八条目が提示されている。

大学寮(だいがくりょう)は、律令制のもとで作られた式部省(現在の人事院に相当する)直轄下の官僚育成機関である。官僚の候補生である学生に対する教育と試験及び儒教における重要儀式である釋奠を行った。

3月は卒業の季節です。今年も沢山の学徒が学を修め社会に踏み出してゆきます。
しかし大学の状況は芳しいものではないようです。昨年の入学者数が定員割れした私立大学は半数に迫るほどで、私立短大に至っては7割に近いものだったといいます。

今春の入学者数が定員を下回る「定員割れ」となった私立4年制大学が全体の47・1%の266校に達したことが30日、日本私立学校振興・共済事業団の調査で分かった。前年度より44校(7・4ポイント)増え、過去最悪の数字を大幅に更新した。定員の半分を下回る危機的な学校は12校増の29校に上っており、地方の小規模大学を中心に、経営難が深刻化している状況が浮き彫りになった。

首都圏の大規模大学が『地方会場入試』や『全学統一入試』などの入試改革で受験生の囲い込みを始めている影響で、「地方より大都市部」「小規模大学より大規模大学」という人気の二極化傾向に拍車がかかっている。

私立短大の状況はさらに深刻だ。学校数は5校減少し、入学定員数は8万2972人で5・5%減。受け皿は縮小しているものの、志願者数は11万5353人と12・4%(1万6337人)も落ち込み、定員割れしている学校の割合は5・3ポイント増の67・5%(243校)に達した。


少子化の影響や都市偏重、有名大学偏重の流れが関係しているのでしょうが、相対的に若者の数に比して大学が多いのでしょう。しかし既にある大学を簡単に整理することはできません。入学者が少なければ入学費や授業料が徴収できませんから大学の運営が厳しくなります。学校を維持するのに資金が不足する自体となります。そこで何とか学生を確保するために特色を出そうとしたり、留学生助成制度だとか、なんとか資金を確保を工面します。資産運用を金融取引でまかなおうとする動きもそうした背景あってのことでしょう。


 世界的な金融危機は、国内の私立大にも大きな影響を及ぼしている。駒沢大学は、デリバティブ(金融派生商品)取引で約154億円の損失を出したことで、キャンパスの土地建物を担保に融資を受ける事態に陥っている。金融取引による資産運用をしている大学も少なくなく、その多くで含み損が発生しているとみられる。(福田哲士)
 少子化や「大学全入時代」の到来で経営が厳しくなっていることに加え、低金利が続いたことが、各大学で金融取引での資産運用に拍車をかけていた。日本私立学校振興・共済事業団によると、全国の大学・短大約650校のうち、少なくとも75校がデリバティブ取引を行っているという。

 含み損を発生させている大学は少なくない。立正大では、今月9月末時点で約148億円の含み損が判明。札幌大でも20億円が含み損となっているとみられる。しかし、多くの大学は、長期保有を目的とした仕組み債で資産運用していることから、駒沢大のように、現時点で評価損を計上してはいない。

 私学の雄、慶応大の運用資産は平成20年3月期決算で約225億円の評価損を計上している。同大では「現時点での評価損は変わっていない」としている。
 もう一方の私学の雄、早稲田大も3月期決算では約5億円の評価損だった。同大は「デリバティブは購入していない。今、保有している有価証券を売却すれば損失が出るかもしれないが、長期保有が目的なので損失は計上していない」と説明する。


 全国の私大・短大を運営する学校法人のうち、駒沢大学などの多額損失で問題になったデリバティブ取引を、12.8%にあたる69法人が行っていたことが分かった。日本私立学校振興・共済事業団が17日、各法人へのアンケート結果を発表した。

 資産運用で多額の損失を出す私大が出ていることから、同事業団が1月に実施。8割にあたる538法人から回答を得た。デリバティブ取引を行っていた69法人のうち39法人は、取引の目的は「(資産運用での)リスクを回避するため」としたが、31法人は、投機目的と見られる「それ以外」と回答した(複数回答)。

 また、デリバティブと債券を組み合わせた「仕組み債」のうち元本保証のない商品を保有していたのは、21.2%にあたる114法人だった。

 株式などを含む資産運用全体の教育・研究活動への影響として、現に11法人が「大きな支障が生じるおそれがある」、2法人が「支障が生じている」と答えた。人件費の削減にまで触れているところもあるという。

では、勉強する学生のほうはどうでしょう。昨年から大麻などの違法薬物汚染が度々報道されています。学生にも、先行きの見えない現代の不透明感、閉塞感が感じているのだろうと思われます。


 昨年、大麻草を栽培したなどとして学生が逮捕された早稲田大(東京)が行った学生の意識調査で、大麻などの違法薬物について、36%が「なんとか手に入る」、17%が「簡単に手に入る」、半数以上が入手可能と回答していたことが17日、分かった。
 周囲に違法薬物を所持、もしくは使用した人がいると答えた学生も10%おり、6%が違法薬物を勧められたことがあると答えた。
 早稲田大は「薬物に想像以上に接近しやすいことを学生も認識している」と危機感を強め、学内誌や講習会などで防止対策を取るとしている。
 調査は昨年12月~今年1月に全学生を対象に実施。約4700人が回答した。違法薬物について、ほとんどの学生が危険性は認識していたが、入手しようとした場合、どの程度難しいかを聞いたところ、「不可能」が27%に対し、「手に入る」は半数を超えた。

これはなにも早稲田大学だけに限ったことではないでしょうね。薬物は学内にすでに浸透しているといえましょう。一流大学・有名大学の学生はそのまま社会の中枢に進みます。官庁だったり一流の企業だったりメディアだったり。薬物と薬物を介した影響力はそれら学生とともに社会の中枢に浸透していきます。また、学生が政治家・官僚・企業幹部の子女だったりすれば、そのままスキャンダルのネタになりますから、また別な影響力が働くでしょう。

古代オリエントでは教育は「自由広場」でなされたそうです。この「自由広場」の「自由」とは、市場の欲望や喧噪、猥雑さからの自由、つまり世俗から自由であるという意味だそうです。
社会にとって第一級の人材を供給する大学ですが、様々な面で行き詰まりを見せているように思われます。

2009年3月16日月曜日

集団のすゝめ


諸子百家(しょしひゃっか)とは、中国の春秋戦国時代に現れた学者・学派の総称。「諸子」はもろもろの学者を、「百家」は多くの学派を意味する。

春秋時代に多くあった国々は次第に統合されて、戦国時代には7つの大国(戦国七雄)がせめぎ合う時代となっていった。諸侯やその家臣が争っていくなかで、富国強兵をはかるためのさまざまな政策が必要とされた。それに答えるべく下克上の風潮の中で、下級の士や庶民の中にも知識を身につけて諸侯に政策を提案するような遊説家が登場した。 諸侯はそれを食客としてもてなし、その意見を取り入れた。さらに諸侯の中には斉の威王のように今日の大学のようなものを整備して、学者たちに学問の場を提供するものもあった。

前漢初期の司馬談は、諸子百家を六家(六学派)に分類した。

世界の万物の生成と変化は陰と陽の二種類に分類されると言う陰陽思想を説いた。
後、戦国時代末期に五行思想と一体となった陰陽五行思想として東アジア文化圏に広まった。

東周春秋時代、魯の孔子によって体系化され、堯・舜、文武周公の古えの君子の政治を理想の時代として祖述し、仁義の道を実践し、上下秩序の弁別を唱えた。
徳による王道で天下を治めるべきであり、徳治主義を主張した。

博愛主義(兼愛交利)を説き、またその独特の思想に基づいて、武装防御集団として各地の守城戦で活躍した。墨家の思想は、都市の下層技術者集団の連帯を背景にして生まれたものだといわれる。
また実用主義的であり、秩序の安定や労働・節約を通じて人民の救済と国家経済の強化をめざす方向が強い。
特に兼愛、非攻の思想は諸子百家においてとりわけ稀有な思想である。

徳による統治を説く儒家と異なり、法による統治を説いた。
戦国の七雄に数えられた秦に仕え、郡県制に見られるような法家思想に立脚した中央集権的な統治体制を整え、秦の大国化に貢献した。
法治思想は名前を変えて漢帝国や歴代の帝国に受け継がれていった。

一種の論理学を説いた。
その末流は往々にして詭弁に陥り、とくに公孫龍が唱えた「白馬非馬」(白馬は馬に非ず-白馬は『白馬』であって『馬』ではない)は後世、詭弁の代名詞にもなった。

老荘思想が最上の物とするのは「道」である。道は天と同義で使われる場合もあり、また天よりも上位にある物として使われる場合もある。「道」には様々な解釈があり、道家の名は「道」に基づく。
老荘思想に基づいて哲学的問答を交わす清談が南朝の貴族の間で流行した。
老荘思想は仏教とくに禅宗に接近し、また儒教(朱子学)にも影響を与えた。

班固は『漢書』芸文志で、諸子百家を六家に三家を加えて九流に分類した。

外交の策士家たち。
巧みな弁舌と奇抜なアイディアで諸侯を説き伏せ、あわよくば自らが高い地位に昇ろうとする、そのような行為を弁舌によって行う者が縦横家である。
「縦横家」という言葉も彼らの策の名前に由来する(「縦」=「従」諸国が連合し秦に対抗する=合従、「横」=「衡」秦と同盟し生き残りを図る=連衡)。

儒家、道家、法家、墨家など諸家の説を取捨、総合、参酌した学派。

神農の教えによれば、賢者・王侯といえども耕作や炊事の万端を自分の手で行うべきであり、このやり方に従えば物価は一定となり国中で偽りをする者がいなくなる、という主張であった。「農」を強調する考え方は、毛沢東の革命戦略を引くまでもなく、近年まで中国で有力だったことは疑えない。

さらに、これに小説家を加えたものを十家としている。

故事(世間の出来事、説話など)を語り伝え、書物にして残した。稗官、すなわち民間の風俗を管理管轄する役人の間から発生したと推察される。

そして、十家に兵家を加えたものを諸子百家という場合が一般的である。

軍略と政略を説く。一般的に戦争に勝つための学問と考えがちであるが、無意味な戦争を批判したり、戦争遂行のための富国強兵論を唱えるなど、単純な「軍事優先」主義ではない。
今、ネットを見ますと、様々な方が意見を述べておられ百家争鳴の感があります。斬新な切り口、深い洞察、時には批判し、時には提言し、世情を縦横に論じていて、国際政治や金融経済の裏舞台から国内の様々な工作暗闘など、なるほどと思うような情報やそういうことかと唸るような見方を拝見していると、とても勉強になります。ところがこうしたブログなどの記事を見ていますと、批判したり糾弾したりする記事は多くとも、ではどうしていくかという創造的な道程を提示されているものはあまり見かけません。政治家にむけて「もっと○○せよ」と呼びかけたところで、そしてそれを読む人が「そう、そう!」と思ったところで、それで政治は変わるものでしょうか(実際、ホントのところ政治にはもはや期待してないでしょ。みなさん)。現状を打破する、既存の枠組みを壊すところまではいっても、新しいものを創るとなるとなかなか難しいものです。

このブログは「連山」にリンクしていただいておりまして、「連山系ブログ」なわけですが、連山の特徴はあの難解な書き口だけではありません。一番の特徴はブログ界に集団戰を持ち込んだところにあると思います。いろんなコラムニストさんがコラムを提供していますし、さらにリンクする関連ブログも広がっています。集団で発信することで“ブロガーの息切れ”現象を回避するとともに、人を集め、集団を組織化し、企画を起こして、実践しようという試みです。個人のアルファブロガーを富士山型とするなら、連山はその名の通り連山型です。孤高を貫く姿にも価値はありますし、群れるのは好きじゃないという向きもありましょう。しかし、個できわだっていても、集団となればまた別なもの。宮本武蔵がどれほど強くても戦局に及ぼす影響となると一人分+αです。

連山に参加するのも良いですし、別にそうでなくても良いです。連山に対しては「なんか近寄りがたい」とか「あの上から目線が気に入らん」とか思う方もいらっしゃるでしょうから。連山に参加するというのではなくとも、ブログ集団を結成して集団的に展開した方が、その及ぼすインパクトは大きくなるのではないでしょうか。現在でも互いに引用したりリンクしたりする繋がりはあるでしょうが、一つの集合として運営機能するとなると、また違った展開が生まれます。思わないよりは思うほうがいい。でも思念だけでは変わりません。発言しないよりは発言するほうがいい。でも言葉だけでも変わりません。集合しそれを組織化し、何か企画を現実化する。長沼伸一郎氏は、人気があるとか評判がいいといった連続量で表されるものを「アナログ力」、当選したとか出版したといった“有無”で表されるものを「デジタル拠点」といい、無形化戦略においてはアナログ力を高めて「デジタル拠点」を確保することが重要であるといいました。行動するブロガーを集合化~組織化することが、ブロガーやそれに賛同する人たちの思いを結実するうえで重要になってくるのではないかと思います。

2009年3月15日日曜日

黄砂の季節

黄砂が大都市を襲う様子を市民たちが激写

中国で吹き荒れる黄砂。日本にも風に流れてやってくることがあるが、中国本土の考査はすさまじいものがある。その様子を、中国人民たちが撮影し、ブログやサイトに掲載して「すごい迫力だ!」と大きな話題になっている。

中国の一部地域では、黄砂はパラパラと降ったり舞ったりするのではなく、まるで土石流かのごとく砂嵐のように都市を飲み込んでいく。その様子が克明に撮影されており、恐ろしささえ感じられる。

(出典:ロケットニュース24「黄砂が大都市を襲う様子を市民たちが激写」)

中国には時間がありません。必死です。本気です。人事だと思っていませんか? 日本とは無関係に中国が滅びるというような想像をしていませんか? 普通、生き残るためには何でもしますよ。世界は近くなりました、対岸の火事などもはやないのです。火の粉がとんできて延焼を免れません。のんびり見物しているようなことはできなのです。

2009年3月13日金曜日

バランサーとは何か

バランサーといえば、盧武鉉前韓国大統領の「北東アジアのバランサー論」が思い出されます。盧武鉉前大統領は「韓国が北東アジアのバランサーになる」という方針を打ち出し、アメリカの不興を買ったのですが、これは韓国がアメリカと中国の間に立ってパワーバランスを取ることで韓国の存在を示そうというものです。

では、バランサーというのはどういうものでしょう。

バランサーが目指すところは均衡の維持です。均衡世界指向です。これは統一世界指向と対極にあります。面白いのはグローバリゼーションも中華思想も統一世界指向であるところです。一つの思想、一つのやり方に統一され均一な世界になることを目指すものですね。バランサーはその対極ですから、多様性を維持し、それが均衡する世界の維持を目的とすることになります。多様性を維持するほうに賛成、単一性を推進するほうに反対です。すべてはバランスの上に成り立つ。バランスは維持されねばならないというわけです。ですから、行動原理はシンプルです。一言で言えば“判官贔屓”、シーソーに例えれば「無条件で軽いほうに乗る」です。二つの勢力があれば劣勢なほうにつく。もう、“無条件に”です。決して風向きを見て優勢なほうに尻尾を振るのではありません。イソップ物語のコウモリのように勝ち馬に乗るのがバランサーではないし、どこに対してもいい顔をする八方美人もまたバランサーではありません。これまでの日本はというと、敗戦国であってアメリカ支配の下にありましたから、無条件にアメリカに乗っていたといえましょう。

となるとバランサーというのは難しいですね。二つの勢力の間に立って影響を及ぼすほどの力を持っていなければならない。そうしますと双方からの懐柔工作が生じますでしょうからそれに抗して独立性を維持しなくてはなりません。また状況の変化を鋭敏にキャッチして、瞬時に対応する機動性が必要です。二正面戦にならぬように立ち回らなくてはならない。自立すれど孤立せず。そういう気概と智慧が必要です。

さて、現在の状況はどうかといいますと、アメリカによる統一世界は崩壊しました。一方、中国による統一世界の可能性は大きくなっています。それを良しとするか、そこは人によって様々でしょう。次の主人を求めるかのように、中国支配の下での日本を望む人もあるかもしれません。私はというと、中国に対して歯止めのなくなった世界を想像すると危機感をおぼえますので、均衡世界派ですね。そうしますと、従米でも反米でもない、媚中でも反中でもない、今の状況ならさしあたりバランサーとしての共米抗中ということになりますか。とはいってもアメリカの中の人も様々ですからそんなにシンプルではないでしょう。まぁ、まず日本の自立ですが。

2009年3月12日木曜日

正しい情報は有益か

先日、“うつ”を患っている人と話をしていて思ったのですが、情報の価値には正しいか正しくないかという正当性のほかに、有益か有益でないかという有益性という側面がありそうですね。いわゆる「役立つ情報」という意味とは、ちと異なりますが。

その人は、外出したりはできる程度の具合なのですが、本屋へ行くとつい、メンタルヘルス関係の本を探して読んでしまうのだそうです。そうすると様々な本があってどれを買って読んだらいいかわからない。いろんな先生が書いているが、こっちの先生の言うのがいいのか、こっちの治療法が効くのか迷ってしまうというのです。新聞にも薬の副作用のことが書いてあると怖くなるし、また、ネットで検索すると、それこそ沢山の情報があります。専門の先生が書いているもの、体験した方がご自身の体験談を書いているもの。そういった方々が集まっているサイトや掲示板なんかも沢山あるそうで、そこではいろんな“裏情報”みたいなものが書き込まれている。中にはご丁寧に薬のこととかにアドバイスしてくれる人がいる。そうしますと、なんだか怖くて薬が飲めなくなってきたといいます。こっちの薬に変えてもらったほうがいいんじゃないか。いや医者を変えてみたほうがいいんじゃないかと、ますます悩みが大きくなりなって眠れなくなっているとのこと。

それを聞いていてなんだか奇妙な違和感を感じました。具合が悪いのだから心配になっていろいろ知りたくなる気持ちは分かります。でも結果として調べるまえより混乱して、迷いが多くなり、悩みが多くなり、不安が高まっているのでは情報を得た甲斐がないし、逆効果なんじゃないかと。一つ一つの情報は正しいかもしれないけど、これは情報の「副作用」ではないか。情報を知ることで不安や迷いがなくなって具合が良くなりたい。そう願う思いとはうらはらにあべこべな結果になってしまっているということも少なくないのではないでしょうか。本来頭を休ませる方向を目指したいのに、逆に頭を混乱してしまうわけですから。「下手の考え休むに似たり」という言葉がありますが、情報ばかりが多すぎて混乱するくらいなら休むほうが有益かもしれません。

では、情報は役に立たないものなのでしょうか。「知らぬが仏」、無知のほうが幸せなのでしょうか。

情報は「知っている」だけでは有益ではありません。その知った情報が体系化され、全体の構造を描き出すよう洗練されてこそです。そうしてはじめてすっきしります。建築資材を集めてもそれだけでは家は建たちません。食材をいくら集めてもそれだけでは料理は完成しない。それを上手く組み上げ洗練され調和のとれたものにしてゆくところに“腕”があります。そしてその途中の過程ではゴミが出る。つまりエントロピーが逆に高まるものです。情報は素材です。それを扱うのは技術です。その途中ではエントロピーは増大しますが、上手に調理しますとスッキリ見通しが立ってエントロピーは収束します。情報がたくさんあれば良いというものではなく、逆に素材が多すぎて全体がまとまらないということもままあるものなのです。

正しい情報はもちろん有益なこともある。しかし、正しい情報であっても有害なこともある。いわんや....です。

まぁ、そんなことを言っているこのブログも「情報」なのですが.....。お役に立てれば幸甚です。

2009年3月10日火曜日

本日、東京大空襲

東京大空襲(とうきょうだいくうしゅう、英語:Bombing of Tokyo in World War II)は、第二次世界大戦中アメリカ軍により行われた東京に対する一連の大規模な空襲。
東京は1944年11月14日以降に106回の空襲を受けたが「東京大空襲」と言った場合、特に規模が大きい1945年(昭和20年)3月10日に行われた空襲を指すことが多い。太平洋戦争に行われた空襲の中でも、とりわけ民間人に大きな被害を与えた空襲である。
1945年(昭和20年)3月10日、アメリカ軍は日本軍需産業の生産拠点となっている町工場を破壊するため、東京下町と市民を対象に空爆しました。そのために日本家屋を研究し、効率よく火災を起こすような焼夷弾を開発して投入しております。折からの季節風とあいまって猛烈な火災は東京市街地の東半部を焼き尽くしました。
火災から逃れるために、隅田川に架かる多くの橋や燃えないと思われていた鉄筋コンクリート造の学校などに避難した人もいたが、火災の規模が常識を遥かに超える規模であるため、超巨大な火災旋風が至る所で発生し、橋や建物に炎が火龍の如く流れ込み、焼死する人や、炎に酸素を奪われ窒息(ちっそく)死する人も多かった。また、川に逃げ込んだものの、水温が低く凍死する人も多く、翌朝の隅田川は凍死・溺死者で川面が溢れていたという。
警視庁の調査では、死亡:8万3793人、負傷者:4万918人、被災者:100万8005人、被災家屋:26万8358戸でとあり、また民間団体や新聞社の調査では死亡・行方不明者は10万人以上と言われています。

この日は日露戦争の奉天会戦において勝利した記念日であり、陸軍記念日となっていました。歴史上何か計画する時にはこうした記念日を選ぶことが往々にして見受けられます。

ちなみに、この3月10日は、第一次ポエニ戦争が終結した日(紀元前241年)であり、三国時代の魏が滅亡した日(266年)であり、チベット蜂起の日でもあります(1959年)。

2009年3月6日金曜日

時の轍、空の轍


シェルドレイクの仮説 (出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

シェルドレイクの仮説(シェルドレイクのかせつ)とは、イギリスの元ケンブリッジ大学教授ルパート・シェルドレイク(en:Rupert Sheldrake)が唱えた仮説。形態形成場(モルフォジェネティク・フィールド)仮説とも言う。事実上、超常現象や超能力に科学的と見える説明を与えるようなもので、疑似科学の1つと見られている。

この仮説は以下のような内容からなる:
あらゆるシステムの形態は過去に存在した同じような形態の影響を受けて、過去と同じような形態を継承する。(時間的相関関係)
離れた場所に起こった一方の出来事が、他方の出来事に影響する。(空間的相関関係)
形態のみならず、行動パターンも共鳴する。
これらは「形の場」による「形の共鳴」と呼ばれるプロセスによって起こる。
非常に簡単に言えば『直接的な接触が無くても、ある人や物に起きたことが他の人や物に伝播する』ということである。

シェルドレイクの仮説を語る時に引き合いに出されるのが、1983年にBBCによって行われたテレビを用いた公開実験です。正解が公開された問題と公開されていない問題を比較すると、公開された問題ではその解答を知らない人においても正解率が上がるという結果が得られました。正解が公開されてしまうと、正解を知る人が増え、それが共鳴して全然それを知らない人でも正解が分かりやすくなると解釈されます。いったん世の中で広く起こった物事は、時間や空間を超えた轍(わだち)を作り、次に起こる物事がその轍を経るようになりやすくなる、というイメージでしょうか。「二度あることは三度ある」「ここであることはあそこでもある」といえましょう。過去に学べば「今あることは過去にもある」「これから起こることは過去にも起こったこと」といえるかもしれません。ですから世界を知り未来を知るには、まさに「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」ということが必要になります。今が過去の繰り返しなら、そもそも一番最初の過去は何から始まったの?という疑問も生じますが、もちろん最初の一歩はあります。これまでの轍を突破する新しい轍も起こりえます。真新しい新雪に足跡を付けるような出来事です。「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る」ですね。その足跡は次の人の無意識の道しるべとなり、新しい轍となります。どうしても“オカルト”と扱われがちなシェルドレイクの仮説ですが、新しい時代を作ろうと思う人が一定数集まれば、直接的に作用しなくても新しい轍はできる可能性を示唆します。一緒に新しい時代を作りませんか。

2009年3月5日木曜日

電気自動車規格覇権

おそらく、車両本体と蓄電池がリース契約なので、初期費用が安く済むのでしょうね。この方法だと。。
そういえば、EV-1もリース契約でした。

この計画のすごいところは、実現したが最後、米国のベタープレイス社さんにEVのマーケットを独占されてしまうことです。

( 参考:電気自動車インフラ戦争
車はどこが作ってもかまわない。車は無料でリース。バッテリーの交換と充電インフラで儲けるというモデルです。



ベタープレイス社のCEOであるシャイ・アガシ(Shai Agassi)氏は、ERPパッケージソフトを提供するソリューションベンダーであるドイツSAP社の次期CEOと目されていましたが、そこを退社してベタープレイス社を起業しました。
次期CEO候補とも目されたシャイ・アガシ氏、SAPを退社へ
ベタープレイス社は、風力発電の盛んなデンマークやアガシ氏の祖国であるイスラエルで、量販実験を展開しようということのようです。
電気自動車インフラ計画、デンマークがまず採用か
ルノー・日産と組んでイスラエルで量販実験
ベタープレイス社のバッテリーはリチウムイオンなのでしょうか。どうもバッテリーの詳細がなかなか見つからないのですが? 中国の電気自動車にしてもそうですが、規格を押さえることは重要な戦略拠点です。一度普及した規格をくつがえすのは容易なことではありません。政治決断で充電インフラを普及させてしまえば、後は優位性は動かない。そのためにも政治決断を促すところに力点があります。社会インフラとしては電気自動車と充電インフラですが、そこの補給線はリチウムなどの金属資源産業と原子力などの電力産業です。ベタープレイス社の戦略は見事なもので、これ自体は太陽光や風力など多様な分散型発電に対応するものですが、同社の成功は資源産業・電力産業にとっても魅力のあるものでしょう。ベンチャーであるベタープライス社がこれほどまでに世界展開できる資金の出所がどこなのか、なにやら穿った見方をしてしまいそうです。

明るい未来を想像させるプランでありますし、こういうご時世ですからインパクトがありますし、需要を掘り起こすインフラ整備に食いつく人も多いでしょう。しかし石油内燃機関文明のサイズは大きなものです。バッテリー供給や電力供給を考えると、これがまるまる現在の石油内燃機関の代替になるものではないのではないかと思います。しかしその訴求性ゆえに資本が集中し、規格覇権を握るかもしれません。

実はその前にまず、節約、効率化によって動力エネルギー需要のサイズを小さくしておくことが必要なのです。でないと「電力需要が多いから原子力発電が必要」という流れに誘導されかねませんから。

2009年3月4日水曜日

中国の内需拡大策を当てにする世界

世界経済が混迷する中、中国はいち早く内需拡大を打ち出しました。
3月4日 0時16分
中国で、国政の助言機関にあたる政治協商会議が3日から始まり、国内の消費を増やすなど、内需の拡大に力を入れることで金融危機の影響を抑えていく方針を確認しました。
政治協商会議は、中国の企業経営者など各界の代表が国政に助言する機関で、3日、北京の人民大会堂で初日の会議が開かれました。この中で、中国共産党の序列4位で政治協商会議の賈慶林主席が活動報告を行い、「安定した、比較的速い経済発展がことしの最も重要な任務だ」と述べました。そのうえで、賈主席は、国内での投資や消費を増やすなど、内需の拡大に力を入れることで金融危機の影響を抑えていく方針を確認しました。さらに、賈主席は、地方から都市に出てきた農民工と呼ばれる出稼ぎ労働者や大学生の雇用対策、それに社会保障制度の整備や、食品や医薬品の安全問題など国民に身近な問題に重点的に取り組むことで、国民の不満を和らげ、社会の不安定化を防ぐ必要があると述べました。中国政府は、社会の安定を保つには8%前後の経済成長が必要だとしており、5日から始まる予定の全国人民代表大会で具体的な政策を話し合うことになっています。
そして、世界もまた、中国に期待を寄せ、頼りにしているような雰囲気が醸成されているようです。実際にそうなのかもしれませんし、そのように誘導したい力が働いているのかもしれません。
 [東京 4日 ロイター]
 ただ、市場関係者が頼りにしているのは年金買いだけではないようだ。「毎日、東京時間の午前10時30分に始まる上海市場動向を注視している」(国内証券)という。世界的な株価の軟化局面で上海株は相対的に堅調な展開となっており、「東京市場にとって、心理的な支えとしての役割は小さくない」(国内証券)と声が出ている。
 (中略)インベストラスト代表取締役の福永博之氏は、日本と並んで消費大国である中国のGDPが一定のレベルで成長するという期待感で、株価総崩れというシナリオは後退したという。福永氏は「全国人民代表大会が始まり、景気対策の具体的な政策が出てくるだろう。中国が下支えしているうちに、米国の金融対策や景気対策の効果が表れて立ち直るというのがベスト・シナリオだ」と話す。

[東京 5日 ロイター] 午前の東京株式市場で日経平均は大幅続伸。前日比200円近い上昇となった。中国の追加景気刺激策への期待から世界的に株価が上昇しているほか、対ドルで99円台まで円安が進んでいることで建機などの中国関連株や輸出株などが買われた。
で、その内需はというと.....。
【3月4日 AFP】中国政府は4日、2009年の国防費が前年実績比14.9%増の4806億8600万元(約6兆9000億円)となることを明らかにした。
 中国の09年の国防費は、前年から624億8200万元(約9000億円)増加。増加幅は前年の17.9%をわずかに下回った。
 日本、米国、およびその同盟国は長期にわたり、目的の不透明さから中国の軍事力拡大に対する懸念を表明している。
 これに対し、5日開幕する第11期全国人民代表大会(全人代=国会)第2回会議の李肇星(Li Zhaoxing)報道官は記者会見で、そのような懸念は見当違いだと述べ、中国の軍事力は国家主権と国家統一の保護という目的のためだけに使用され、いかなる国にも脅威を与えないと強調した。(c)AFP
そっちかよ。でも、それが堂々とできるところが中国の強みでもあります。世界が中国の内需拡大を期待しているという理屈があれば、批判の声をも封じやすかろうというもの。中国の内需を当てにして中国の武力の増強に目をつむるという構図が世界中に醸成されつつあるのでしょうか。そういえばついこの間まで、みんなアメリカの経済を当てにしていたなぁ。


義を見て為ざるは勇無き也

見義不爲 無勇也  (『論語』)

孔子の有名な言葉ですね。意味はご存じの通りです。なるほどと思うものの、いざ実践するとなるとなかなか難しいですね。ついつい「君子危うきに近寄らず」などと自分に言い訳をしてしまうことも度々です。

義とは、人間の行うべき正しいすじみちの意味ですが、「義」という字のもともとの義は、「かどめがたって格好のよいこと」だそうで、つまり「きちんと筋が通って格好がいい振る舞い」ということのようです。男の美学みたいですね。そう見ますと、義とは行動を伴います。実践です。ですから行動を起こすために勇断が必要になります。「{義を見て為ざる}は{勇なき}なり」は、「{勇あり}ならば{義を見て為す}なり」ということでもあります。勇気があれば筋の通った格好の好い振る舞いをするものだといえましょう。ここでひとつ悩むのが「勇気はいかにして身につくのか」ということです。

逆は必ずしも真ならずといいますが、私はこの場合「義を為すことが勇を作る」のではないかと考えます。屁の突っ張りでも、カッコいい振る舞いをする。かどめのたった、正しい振る舞いをする。小さなことでも道理にかなったあるべき行いを実践する。小さな勇気が次の行いを喚起し、その行いがまた勇気を育てる。その小さな積み重ねが、種火を起こすように、勇気を生み育てるのではなかろうかと。そのように思います。


2009年3月1日日曜日

螢の光 仰げば尊し

3月ですね。3月と言えば卒業シーズンです。卒業式で「螢の光」や「仰げば尊し」が歌われなくなって久しくなりました。先日、教師をしている方と話しをする機会があり、「螢の光」や「仰げば尊し」が歌われなくなったことが残念である旨を話しましたところ、「今の歌もいいですよ。聞いてみてください。感動しますよ」というお答えでした。私はこの「感動します」に大変違和感を覚えたのです。卒業式は感動し涙を流すことはそうだろうと思います。しかしそれは卒業式という式典に臨んで感動するのであって、感動することが卒業式の目的ではないのです。感動することが目的となっては本末転倒でしょう。卒業式は学問を修めて、その業を卒えたことを認定し、新たな次元に進むことを祝福するための式典です。別れを惜しんで感極まるのはそれに付随する情緒です。感動的な卒業式にしようと考えているのであれば、それは卒業式のエンターテイメント化だろうと思います。まして生徒受けするような曲を選んでとなれば、それは学問の場に消費者に迎合する商業主義を持ち込んでいるように感じます。確かに「螢の光」や「仰げば尊し」の歌詞は、現代ではわかりにくくなりました。しかし、難しくて分からないから簡単で分かりやすいものを、というのでは何のための学校なのかという思いがします。分からないものを分かるようになろうと目標を高く上げることこそ学校に求められることでしょう。卒業式に臨んで歌詞の意味と精神を教えることくらい教師の素養だと思います。

もう一つ、私が「螢の光」や「仰げば尊し」を歌って欲しいと思うのは、世代間の伝承という意味に於いてです。今の子は父母が歌った「螢の光」や「仰げば尊し」がわかりません。それだけではなく昔は当たり前に読まれた本や、当たり前に歌われた唱歌もまた経験しません。桃太郎の話が分からない子は沢山います。これは話や歌を介して、世代間で共有してきた文化が断絶していることであります。「新しい本だって感動する、新しい歌にも良いものがある」という以上の意味があるのです。卒業式では父も母も祖父も祖母も歌った「螢の光」や「仰げば尊し」を、私たちもまた歌う。この、世代を越えて体験を共有することの持つ意味をもっと重大なこととして考えるべきだと思います。

螢の光

蛍の光 窓の雪
書読む月日 重ねつゝ
何時しか年も すぎの戸を
開けてぞ今朝は 別れ行く

止まるも行くも 限りとて
互いに思う 千萬の
心の端を 一言に
幸くと許り 歌うなり

筑紫の極み 陸の奥
海山遠く 隔つとも
その眞心は 隔て無く
一つに尽くせ 国の為

千島の奥も 沖縄も
八洲の内の 守りなり
至らん国に 勲しく
努めよ我が背 恙無く

「螢の光」はもともとスコットランド民謡ですが、それぞれ歌詞を変え世界中で歌われています。日本へは明治10年頃に入り、小学校唱歌として歌詞が付けられました。
一番の、「螢の光 窓の雪」は、もちろん中国の故事「蛍雪の功」にちなみます。「何時しか年もすぎの戸を開けてぞ今朝は別れ行く」のところは(年も過ぎ)と(杉の戸を)を、また、「開けてぞ今朝は」は(戸を開けて)と(明けてぞ今朝は)を掛け、しかも夜が明けて朝になることと、学業を明けて新たな段階へとの旅立ちとなることを掛けています。
二番の、「心の端を一言に幸くと許り歌うなり」の端とは先の一部分ですから、本当はもっと沢山ある心の一端ということです。また、幸とは災いを免れる幸運のことで、許とは「およそその程度に」ということでありますから、「(本当は様々な想いがあるのですが)心の一端を、“幸あれ”という一言にこめて歌うものであります」という意でありましょう。別れ行く人に対する様々な想いを秘め、その無事を祈って歌に込めるという心情が伺えます。
三番の、「一つに尽くせ国の為」という部分は、戦後教育において「好ましくない」という印象を持たれたところでしょう。国ためというところは当時の時代性を反映しています。しかし「国のため=軍国主義」というようなステレオタイプな思考もまた、思慮の浅いものだと思います。ここでは国ですが、社会でも人類でもかまいません。個人の成功や個人の幸福を越えた、より広く志の高い目標が現代の教育の中で歌われてきたでしょうか。いかにに高い志を持たせるかということは教育の大事な目的です。
四番になると、いよいよ「軍国主義だ」という批判が聞こえてきそうです(笑)。時代の中で、千島が樺太に、沖縄が台湾に拡大した時期もあったようなので、ますますもって目くじらを立てられそうですが、当時はそれが日本の領土でしたから当然です。国土を守るということは主権を守ることです。それが国であれ、家族であれ、あるいは名誉であったり稔侍であったりするかもしれませんが、決然とした気持ちで何かを守るという気概が自立の第一歩でもあります。さて、「至らん国に 勲しく 努めよ我が背 恙無く」ですが、「至らん」の「ん」を否定と解釈すると「未熟な国に対して」ということに受け取られますが、そうではないでしょう。これは「至らん。国に(勲しく)努めよ。我が背、恙無く」と解釈するのが良いように思います。「至る」は「到達する」ですから、この場合の「ん」は意志を表しているでしょう。そういう高みに到達せんとする決意の表れと解するのが妥当だと思います。「勲し」とは、薫しい手柄・功績をあげる様のことです。手柄・功績は結果とか成果とは少々意味を異にします。結果・成果は個人的な内容も含みますが、手柄・功績は社会的なものです。世のために何事か美事に成し遂げる様を表しており、そこに志の高さがあるのです。「そのような気持ちをもって国に努めなさいませ。貴男様。恙無く。」ということです。立志を持って旅立たんとする(愛しい)人を、案ずる気持ちを添えて送り出す心情が現れています。

「螢の光」に限らず、「国の為」という言葉を排除するかのような思考が、人生の目標を極めて個人的なものに矮小化してきたのではないかと思います。何事か大きな志をもって多くの人のために何事か成さざらんという思想性の高さが歌われることが少なくなり、幸せである、ハッピーである、一人一人の夢をといった、個人的で情緒的な内容の歌詞が多くなってきているのではないか。それが公益性や利他性といった視点でものを考えることの価値が薄らいできているように感じることと無関係ではないのではないように思います。何も「お国のため」を強調したいわけではありません。そもそも「国」という言葉をどうとらえるかというところから吟味しなくてはなりません。私は「麻生政権のため」とは思いませんが(それは民主党だろうがどこだろうが同様です)、「日本のために何かしら力を尽くしたい」とは思います。

では、そのために何が出来るか。私一人が世の中を変えることはできません。市井の一人に何ができるのか、そこで「修身齋家治国平天下」(IMEで変換すると「終身制か遅刻閉店か」と出るのはいかがなものか)です。「修」とは、凸凹のないすらりとした姿に調えることです。知識はそれを知っただけでは、ゴツゴツといびつなものです。智者と物知りは似て比なります。知識を得て、その体系が洗練され、しかもそれを実践できるよう身につくことが、学を修めることであり、修身とはそれによって自分の行いを正しくすることです。「齋」とは、清め調えることです。「欲斉其家者先修其身(大学)」。身を修めることが、家を斉えることにつながる。家を斉えることが国を治めることにつながる。国を治めることが天下を平らかにすることにつながる。これはフラクタルですね。まずは、学を修め身を修めるよう実践するところからですね。ところで、だとすれば「螢の光」や「仰げば尊し」が歌われなくなったこの20年が、個人主義が強まった現在の世の中とフラクタルであるとは言えませんでしょうか。我ながら極論だとは思いますが、全く見当外れでもないように思っています。



仰げば尊し

仰げば尊し 我が師の恩
教の庭にも はや幾年
思えばいと疾し この年月
今こそ別れめ いざさらば

互に睦し 日ごろの恩
別るる後にも やよ忘るな
身を立て名をあげ やよ励めよ
今こそ別れめ いざさらば

朝夕馴にし 学びの窓
蛍の灯火 積む白雪
忘るる間ぞなき ゆく年月
今こそ別れめ いざさらば