2009年7月12日日曜日

「キリスト教は邪教です!」って

ニーチェの「アンチクリスト」を現代語に超訳した、適菜収さんの「キリスト教は邪教です!」を読みました。帯に「名著、現代に復活 世界を滅ぼす一神教の恐怖 !! 」なんて刺激的な言葉が踊ります。面白い現代語超訳で書かれていて最後まで一気に読めてしまいます。この中でニーチェは適菜さんの言葉でユダヤ・キリスト教を徹底的にこき下ろしています。ニーチェが発狂する直前の著作なので、関係者の皆様からすれば「狂人の書いたもの」ということになるのかもしれませんが、まぁ、キリスト教成立のくだりなんかはこんな具合です。一部引用させていただきます。
 たしかにイエスはユダヤ教の諸制度に反対しましたが、キリスト教は、ユダヤ民族の持っている本能に反発したわけではなく、むしろその性質を徹底させているのです。
(中略)
 ユダヤ人は世界でもっとも注意しなければならない民族です。彼らは狙ったものを、どんな手段を使っても手に入れようとするからです。彼らユダヤ人がやったことの代償は非常に高くつきました。
 ユダヤ人は、自然や私たちの暮らし、私たちの精神世界を、徹底的にニセモノに作りかえました。民族が民族として生きていくために必要なものすべてに反抗し、自分たちの手で、自然の法則に対立する考えを作っていきました。宗教や礼拝、道徳や歴史、心理学といったものを、本来の姿とはまったく違ったものにねじ曲げていったのです。
 これは到底許されることではありません。
 つまり、キリスト教がやったことは、ユダヤ教のマネゴトなんですね。キリスト教がオリジナルではないのです。
(中略)
 「ルサンチマン道徳」とは、弱い人間の恨みつらみから発生した道徳のことです。つまり、ユダヤ的、キリスト教的な道徳です。それは「高貴な道徳」をなんとか否定しようとして発生したものです。
 人生をよりよく生きること、優秀であること、権力、美、自分を信じること。こういった大切なものを徹底的に否定するために、彼らはまったく別の世界をでっちあげていきました。
 心理学的に見ると、ユダヤ民族はとても強力な生命力を持っています。彼らは不幸な状態に陥ると、自発的にすべてのデカダンス(退廃)に味方するのです。デカダンスに支配されるためではなく、デカダンスを利用して権力を握るためです。
 つまり、ユダヤ人とデカダンスはセットなのですね。
 彼らは人生を肯定する人たちに対抗するために、天才俳優のようにデカダンスを演じ始めました。そして、その演技こそ、パウロが始めたキリスト教だったのです。
イエスはユダヤ教の諸制度にとらわれない生き方を実践した変わり者だった。そのイエスに目をつけ、既存のユダヤ教の権力構造を転覆するため、下層民の洗脳装置として利用したのがパウロで、ユダヤ教的手法を元に出来上がったのがキリスト教だというわけです。ユダヤ教体制を崩壊せしめたキリスト教は、さらにローマ文明に嫉妬し崩壊させたといいます。その後2000年に渡ってキリスト教は洗脳し続けますが、それを下敷きにした西洋哲学もまたそれに荷担しているといいます。
 こうして、ユダヤの僧侶たちはニセモノの神や道徳をでっちあげ、本当のイスラエルの歴史を消していきました。その証拠として現在残されているのが『聖書』です。
 彼らは自分たちの民族の言い伝え、歴史的事実に対して、汚い言葉をあびせかけ、宗教的なものに書き換えてしまいました。エホバに対する「罪」と「罰」、そしてエホバに対する「祈り」と「報い」という、子供だましのカラクリをでっちあげたわけです。
 教会はこのようなデタラメな歴史を、数千年もの間、教え続けてきました。それなので、私たちはすっかりバカになってしまい、歴史がゆがめられていることに気づかなくなってしまったのです。
 なにより悪いのは、哲学者たちが教会の手伝いをしたことです。「道徳的世界秩序」というデタラメは、近代の哲学の中に一貫しているテーマです。
 「道徳的世界秩序」とは、要するに「人間がするべきこと、してはならないことは、神の意志によって決められている」ということ。
 また「民族や個人の価値が、神に従うかどうかという基準によって測られ、民族や個人の運命が、神に従うかどうかによって、罰せられたり救われたりする」ということです。
 要するに、単なるヨタ話です。僧侶とは、健康な人たちの精神を食いつぶして生きている寄生虫、パラサイトなのですね。
 彼らは自分たちに都合がいいように神を利用します。僧侶たちは、自分たちの望みが実現される社会を「神の国」と名付けました。そしてその「神の国」を実現するための手段のことを「神の意志」と名付けたのです。
 民族、時代、個人、それらすべてを、僧侶たちは「自分たちの役に立つかどうか」という基準で測るのです。
では、ニーチェはどのような社会がよいと思っていたのでしょう。ニーチェは階級社会こそが人間社会の自然なありかただと考えていたようです。しかしそれは奴隷社会ではありません。ニーチェは、弱い人間では圧しつぶされるような重圧の中で重い課題に取り組むことを幸福と感じるような精神のすぐれた勇者と、その片腕となり面倒を引き受ける強者と、そして大勢の平凡な者たちからなる階級社会を想定していました。そしてそれぞれの階級にそれぞれの特権があり、精神的な者たちは平凡な人が持っている特権を見くびることはないといいます。ニーチェは「それは一つの能力によって専門的な仕事をするのが、人間の自然な本能です。高い文化はこういった平凡さを条件をしています。だから、平凡な人をバカにしてはダメなのです。例外的な人間が平凡な人間を、思いやりを持って大切に扱うのは、単なるマナーの問題ではありません。それは、一言で言えば例外的人間の義務です」と述べています。そしてそれに対し、共産主義や無政府主義やキリスト教は、弱さ、嫉妬、復讐心から体制を破壊するだけのデカダンスであると断罪しています。
 世の中にはみすぼらしくていやらしい人間がたくさんいます。
 その中でも一番下等なのは社会主義者でしょう。
 仕事に対する意欲、働く楽しみ、仕事を成し遂げたときの満足感。それらに対し、いやらしい悪意を持って攻撃するのが、社会主義者という名の下層民です。
 労働者を嫉妬させ、復讐を教えるのが彼らのやりかたです。
 不正は決して権利の不平等にあるのではありません。
 不正は権利の「平等」を要求することにあるのです。
 これまで言ってきましたように、「弱さ」「嫉妬」「復讐」から劣悪なものは生まれます。
 無政府主義者とキリスト教は、結局同じ穴のムジナなのですね。
(中略)
 キリスト教は世界を破壊しつくしてしまった。
 キリスト教と無政府主義者は、両方デカダンスです。解体したり、害毒を与えたり、歪曲したり、血を吸う以外には何の能力もありません。立っているもの、持続するもの、未来を約束するもの、すべてに対する恨みと呪いの固まりなのです。
とはいえ、そんな嫉妬怨念に満ちた下層民のルサンチマンを断罪したニーチェの思想も、リバタリアニズムに取り込まれると、大衆に搾取されるインテリのルサンチマンへと転用されてしまうのですから、ニーチェも草葉の陰で嘆いていることでしょう。「〜教」「〜主義」「〜イズム」と名を変えたところで、嫉妬・怨恨に根ざしたものが作る世界は、新たな嫉妬・怨恨を生み出すものです。
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