2009年6月27日土曜日

【リバタリアンとは】 私の感想

 ディオニューソスは神の後継者として生まれたはずが嫉妬によって迫害を受ける。しかし豊穣(多くの価値を得る方法)を得る力を身につけ、酒(精神に作用を及ぼす技法)によって信奉者を増やし、反対者には復讐し動物(人間以下の存在)に貶めて恐れさせ、ついに神であることを認めさせる。これはユダヤの選民思想と重なるように思える。
 ギリシア神話のディオニューソスはローマ神話のバッカスであり、リーベルと同一視される。リーベルがリバティの語源になった確証はないが、迫害からの解放というモチーフは自由という観念と重なる。ランドが影響を受けたニーチェがアポロンとの対比でディオニューソスに言及しているところもまた奇妙な重なりを感じる。
 ディオニューソスの密儀という狂宴はなにやら秘密結社のイニシエーションのようだ。非日常性とそれに伴う興奮を共有することは日常との隔絶を印象づける。その際、異常性が強ければ強いほど日常からの隔たりは大きくなり、一般社会から心理的に断絶し孤立し、それゆえにその集団への依存を強めることになる。「まともな世界では生きられない」というやつだ。異常性の共犯者となることは、その集団からの脱出に対する脅迫となり、社会への回帰を困難にさせる。
 『肩をすくめるアトラス』では、主人公たちは山の中の隠れ家に自分たちの自由な世界を作ろうとする。これは日本のカルト教団が富士山麓にサティアンと呼ぶ共同体をつくったことを思い起こさせる。そして、この作品の執筆期間、一つのアパートにランドとその信奉者が共同体を形成して夜通し哲学談義に明け暮れたという逸話もまた、これと重なり合う。私はここにディオニューソス的な高揚を見る。ランドがディオニューソスの密儀のような狂宴をしていたとは思わないが、思想を共にする小集団が社会に対する反駁を共有して一体感に高揚するという点で似ているように感じる。これは何も特殊なことではなく、人間集団にしばしば見られることだ。暴走族の集会にも見ることができよう。
 知性化されたものであれ、暴力化されたものであれ、誇大的な自己の発揚にはルサンチマンの反動を感じる。自身の思想がルサンチマンの道具とされることをニーチェが予想していたかどうかはわからないが、社会的規範や慣習、道徳律をはじめ自分を不自由に感じさせるものから自らを解放することを正当化する方便としてリバタリアンに利用されているように思える。それは我が意の儘(我が儘)に行動することを阻むすべてのものを破壊するだろう。自然の摂理ですら。
 リバタリアニズムの思想は新しいようで古い。王と教会の束縛から解放されようとする時の古典的な自由思想、自由放任の資本主義の模様替えである。封建的な束縛からの解放と言えば汎用性があるが、最もそれを欲していたのは社会的辺縁に追いやられていたユダヤ人だろう。「神の見えざる手」とは「好きにやらせろ。そうすれば神様が面倒を見てくれる」というものだ。リバタリアンの自由とは解放である。脱抑制といってもいい。「俺を不自由にさせているものから脱して、思うが儘に意志と欲望の翼を広げる」というようなものだ。不自由にさせているものとは、社会制度であったり、法であったり、規範であったり、常識であったり、道徳であったりする。例えランド自身にはそのつもりはなくとも、その思想は恣意的に矮小化され、「自由にして何が悪い。生存のための struggle & survive は自明の理だ」という居直りを正当化する。
この世界の政治や経済や文化を支えている頭脳と才能と責任感を持った人間が、彼らや彼女らの能力に依存してそれを搾取する人々に自分たちを搾取させるがままにしないで、「ストライキ」を始めたら、この世界はどうなるか、つまりこの世界を支えるアトラスのような人々が「もうやめた」とばかりに「肩をすくめた」ら、この世界はどうなるか?というのが、この小説内容である。
(中略)
ジョン・ゴールトは、有能な人間の能力を搾取して、有能な人間の美徳を利用して自分は楽をして生きようとする寄生虫的人々に汚染されていく社会に見切りをつけて、新しい社会を創設しようと、賛同者を募ってコロラド山中に別社会を建設する。
(中略)
システム機能不全のために混乱は一層拡大し、その収拾をつける責任ある機関も人材も旧世界にはいない。繁栄を極めたニューヨークにすら大停電が起き、アメリカ合衆国は破滅の道をたどる。しかし、ゴールトたちにとって、この終末こそが、アメリカの破滅こそが、「彼らのアメリカ」建国の真の始まりなのだ
と紹介しているが、リバタリアニズムは破壊と解放を求めるが、その後のことに責任を持たない。構造化も秩序化もしないのだ。「俺の有能さにたかられるのはゴメンだ」とはいうものの、全体がうまくまわるための構造化という視点はない。「秩序化は最小限の政府の仕事。俺の邪魔をしない程度に善きに計らえ」というものだ。尻拭いを自分の外に投げ出して、有能な者にぶら下がる者や秩序や道徳に生きる者を見下しながら、自分は孤高を生きているようなつもりになっているのだとしたら、それはナルシシスティックでナイーブな理想主義だし、現実には間接的な依存であろう。依存する者を軽蔑しつつ、自分が依存していることは否認している、尊大な甘えである。
 第一に、世の中は優秀で有能な人間ばかりで成り立っているわけではない。第二に、優秀で有能な個人が集まれば素晴らしい社会になるわけではない。第三に、リバタリアニズムにおいては秩序の根拠を個人に求めなくてはならないが、それを達成するのは方法が示されていない。ゆえに無秩序化に対する制御がない。
 付け加えれば、リバタリアニズムではその原理を私的財産権に置き、私的財産権の根拠を自己所有権が自明であるからというところに求める。しかし私個人は私的財産権の根拠とされる自己所有権を信じていない。私は命も身体も自然からの借り物であると思っている。人間社会の互いの取り決めとして所有は生じるが、それは借り物同士の関係上の所属権にすぎない。借り物だからこそお返しする時が来るまでは大事に扱わねばならないし、大局的に自然と調和するように活用しなければならないと思っている。土地の所有権についてもそうだ。草も生きているし虫も生きている。それを俺の所有物だというのは理に適わない。人間社会の取り決めとしてそうしているのであって、所詮、自然からの借り物なのだ。

 私はランドの主張を全面的に否定しているわけではない。主体的に能動的に生きようとせずに他者に依頼するばかりの者や、弱者への善意とか利他とかを振りかざして正義面する者に欺瞞も感じるのは私も同様だ。個として主体的に能動的に生きるという点では賛同する。しかしリバタリアニズムを中心に持ってくれば解決するものでもない。様々な多様性の中でルサンチマンの反動のようなエゴイスティックなナルシシストがいてもいいが、それらが社会の中心になっても、なんの構造も秩序も生まれないだろう。それらはあくまで社会の一つの辺縁(ein Rnd)にいる程度が妥当なのだ。
ブログランキング・にほんブログ村へ
【メルマガ購読】
秋月便り
 

0 件のコメント: