2009年6月24日水曜日

【リバタリアンとは】 アイン・ランド 1


「アイン・ランドは、ネオコン派と闘う本物のアメリカ保守思想-リバータリアニズム-の源流である。」
評論家・副島隆彦(『水源』によせて)
「アメリカ発の金融恐慌でも、資本主義が滅びることはない!」
副島隆彦氏激賞(『利己主義という気概』によせて)

アイン・ランドはソヴィエト連邦出身でアメリカに帰化したユダヤ人小説家であり、哲学者、劇作家、脚本家である。「アメリカの一般読者が選んだ20世紀の小説ベスト100」で一位、二位を獲得し10位内に4つの作品がランクインするなど現代アメリカを代表する作家であり、また客観主義と呼ばれる哲学大系を発展させたことで知られる。ランドの哲学は財産権を含む個人の権利と、レッセフェール(自由放任)資本主義を重要視するもので、道徳的エゴイズムを推進し利他主義を非難した。彼女はファシズム、共産主義、福祉国家を含むすべての集産主義と国家主権主義の反対した。ランドはリバタリアニズムに影響を与えた人物として扱われることが多いが、彼女自身はリバタリアニズムとは距離を置き、自身の哲学を客観主義(Objectivism)と称している。ランドに影響を受けた人は数多く、元連邦準備制度理事会(FRB)議長議長のアラン・グリーンスパンや88年大統領選挙にアメリカ・リバタリアン党として出馬し、現在は共和党議員であるロン・ポールもその一人である。

日本では、彼女の著作を翻訳している藤森かよこ氏が主宰する「アイン・ランド研究会」が詳しい。藤森氏はランドを信奉しつつ、彼女を客観的に評価しようとしており、そこがまた忠実にランディアン的である。ここでは藤森氏のサイトとWikipedioaからアイン・ランドの生涯を追ってみたい。

アイン・ランドは本名をアリーサ・ツィノヴィエヴァ・ローゼンバウムといい、1905年2月2日、ロシア・サンクトペテルブルクの中産階級家庭に、三人姉妹の長女として生まれた。両親はユダヤ人であり、彼女の父親は薬剤師として薬局を経営し成功していた。彼女は幼少の頃から聡明であったが、同世代の少女達との交流は不得手で孤独がちであったようだ。彼女は父親を尊敬し、知性を重んじた。特に数学が得意であったという。
1917年(12歳)、第一次大戦の戦況は長引き、ロシアでは厭戦的な空気が満ち、前線から撤退した兵士の不満も高まった。12歳になったばかりのランドは、サンクトペテルブルクの広場に面したアパートの窓からデモ隊の群衆や無数の赤い旗を目の当たりにする。そして群衆に対する最初の銃撃を目撃する。これが2月革命であった。帝政に反対する気持ちからランドは社会革命党の指導者アレクサンドル・ケレンスキーに共感していたが、彼女と彼女の家族の生活は、レーニン率いるボルシェヴィキの台頭によって破壊された。父親の薬局はソヴィエトによって没収され、家族は一時クリミア半島に逃れた。ランドが家族とともにサンクトペテルブルク戻ったのは、彼女が16の時だったが、生活は決して楽なものではなかった。
彼女はペトログラード大学(ソ連時代のレニングラード大学)に入学。そこで彼女では社会教育学部に所属し、歴史を専攻して哲学者ニコライ・O・ロースキィの下で学んだ(ロースキィは、ロシアの哲学者で、ロシアの理想主義、直観主義、パーソナリズム、リバタリアニズム、倫理学、価値論を代表する。彼の哲学は直感的パーソナリズムと呼ばれる)。
彼女がアリストテレスプラトンの著作に引き込まれたのは大学在学中であった。彼女に影響を与えたもう一人の人物はフリードリヒ・ニーチェである。彼女はニーチェの哲学的作品を濃密に研究し、『ツァラトゥストラはこう語った』の英雄的感性に陶酔した。なお、藤森氏によれば、彼女の最初の恋人は彼女の情熱が重くて引いてしまったという。ランドは卒業間際に"非プロレタリアン"として大学から追放されたが、後に卒業を認められた。1924年(19歳)に卒業した彼女はその後、ハリウッド映画に憧れながらシナリオ学校で勉強した。
1925年(20歳)末、アメリカ・シカゴの親戚を訪ねるという理由で彼女にビザが認可された。彼女の母親は彼女を亡命させようと考えていた。因みに両親は後にドイツ軍のレニングラード包囲戦で死亡している。1926年2月(21歳)、彼女は船でアメリカに到着した。彼女は名前をAyn Randとした。アイン・ランドという発音はドイツ語でein Rand、「一つの」「隅,辺縁」となる。ゲットーでの生活を余儀なくされた歴史を持つユダヤ人にとってこれは印象的な言葉だろう。彼女があえてこの名前を選んだのは、ユダヤ人というアイデンティティを携えて新天地に踏み出そうとしたからだろうか。彼女は新聞売り、ウエイトレス、店員などをして働きながら映画館に通い英語を身につけた。その後、ランドはハリウッドに向かい生活のために雑用をしつつシナリオライターの夢を追った。そんな中、彼女は『十戒』などで有名なユダヤ人映画監督セシル・B・デミル(藤森氏に依ればデミルはフリーメーソンであったという)と出会い、彼の映画『キング・オブ・キングス』(1927年)にエキストラ出演し、その次の作品のスクリプトリーダーの仕事を得た。この時、彼女の目に止まったのは若き俳優フランク・オコーナーだった。 1929年(24歳)、二人は結婚し、オコーナーの死まで二人は連れ添った。 1931年(26歳)、彼女はアメリカ市民となった。
1932年(29歳)、ランドは脚本『Red Pawn』がユニバーサル・スタジオに売れたことで最初の成功を手にした。ウィーン生まれのユダヤ人映画監督ジョセフ・フォン・スタンバーグはマレーネディートリッヒをヒロインにこの脚本の映画化を考えたが、 当時反ソ連のテーマは不人気だったためプロジェクトは没になった。この作品は1934年にハリウッドの劇場ドラマとして上映された。ランド夫妻はニューヨークに転居し、1935年(30歳)、同作品がブロードウェイでリメイクされたことで収入を得たランドの生活は安定した。1936年(31歳)、彼女の半自伝的な最初の小説『We The Living』がマクミラン社によってに発刊された。
1940年(35歳)、彼女と夫は共にウェンデル・ウィルキーの大統領選挙運動にボランティアとして参加した。この活動は彼女を自由市場資本主義との出会いとなった。ニューヨークタイムズ紙のリバタリアン・エコノミスト、ヘンリー・ハズリット夫妻は以前からのランド夫妻の友人であったが、彼はその後ランドを、現代リバタリアニズムに影響を与えたオーストリアの経済学者ルートヴィヒ・フォン・ミーゼスに引き合わせた。二人は彼女との哲学的相違にもかかわらず、ランドを賞賛し、ランドは生涯に渡って二人の書物を強く支持した。
1943年(38歳)、ランドの最初のベストセラー『水源―The Fountainhead』が出版された。これは、彼女が長年したためてきたロマンチックで哲学的な小説で、アメリカの近代建築家フランク・ロイド・ライトをモデルにしたと言われる、野心的な若き建築家ハワード・ロークを主人公に描いたものである。この小説は12の出版社から断られた後、ボブズ・メリル社(社主のサミュエル・メリルはインディアナ州発行の1ドル紙幣の肖像となった名士)が採用した。『水源』は最終的に世界的な成功となり、ランドに名声と経済的安定をもたらした。
1943年、ランドは『水源』の映画化に伴い脚本を書くためハリウッドに戻った。翌年、ランド夫妻は、オーストリア出身のユダヤ人近代建築家リチャード・ノイトラ設計の郊外住宅を購入した。ここでランドは、ハズリットや、ハリウッドの劇作家や女優、それにアメリカ最初のリバタリアン・シンクタンクである経済教育財団(The Foundation for Economic Education ; FEE) の創設者レオナルド・リードらをもてなした。
第二次大戦後の1947年(42歳)、“赤狩り”の際に、ランドは非米活動調査委員会(HUAC)の前で好意的な証人として証言している。1944年の映画『Song of Russia』で描かれれている描写は彼女のソ連時代の経験とは乖離しており、ソ連の社会経済的状況とソ連下の生活を実際よりもより良くより幸せそうなものとして、ひどく歪曲していると証言している。彼女は、たとえナチスを打ち負かすためにソ連との一時的な同盟が必要であるとはいえ、ソヴィエトの生活に誤ったポジティヴな印象を与えるべきではないと信じていた。
1950年(45歳)、彼女の作品の愛読者であるユダヤ系カナダ人学生ナサニエル・ブランデンと後に彼の妻になるバーバラとの交流が始まる。若い信奉者と夜を徹して語り合うような生活が始まる。翌1951年、ナサニエルらが進学のためにニューヨークに転居すると、ランド夫妻もまたニューヨークへ転居した。夫は田舎の豪邸生活を諦めることに不満はあったが、経済的にも彼女に従わざるを得なかった。1953年(48歳)、ナサニエルとバーバラ結婚しランドの近くに住まう。後年、ランドとランドの弟子たちは同じアパートのビルに住むようになり小さな共同体を作ることとなる。次の年にはランドは25歳年下のナサニエルと恋愛関係になり、ランドはバーバラと夫を説き伏せて、ナサニエルとの性交渉を含めた関係を承認させたという。
1957年(52歳)、1,100ページに及ぶランドの最高傑作『肩をすくめるアトラス』が出版された。ランドの最後のフィクションであるこの大作は「客観主義」というランド哲学の核心を表現している。そのストーリーの中では多くのクリエイティヴな実業家や科学者、芸術家が山の中の隠れ家に引き籠もり、そこで独立した自由経済を構築する。そして、社会的平等や利他主義を名目に搾取しようとする社会に対してのストライキを試みる。この小説は数章書かれるごとに、アパートに集まった弟子たちの前で読み上げられ、弟子たちはそれを楽しみにしていた。その中には後のFRB議長アラン・グリーンスパンもいた。
1958年(53歳)、 ナサニエルがランド哲学の研究所であるNathaniel Branden Institute(NBI)を設立し、以後ここが講演・教育・啓蒙活動の拠点となり、客観主義運動は全米に広まった。
1964年(59歳)、 ナサニエルはNBIに参加していた若い女優と不倫関係になる。1967年(62歳)、NBIは絶頂期を迎えエンパイア・ステート・ビル内に事務所を移転し、NBIは絶頂期を迎えるが、翌1968年(63歳) ナサニエルの不倫が露見し、ナサニエルは破門されNBIを中心とした共同体は崩壊していく。
60年代70年代を通して、ランドはノンフィクション作品やイェール大学、プリンストン大学、コロンビア大学などの有名大学での講演によって彼女の客観主義哲学を発展・推進させた。
1972年(67歳)、 ランドは末の妹ノラ夫妻をソ連から呼び寄せたが、妹夫妻はアメリカの生活に馴染めず帰国した。1979年(74歳)、夫フランクが死亡。1981年(76歳)、ランドは肺ガンの手術の後、十分な快復をみぬまま、1982年3月6日、77歳で死亡した。
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