2009年4月22日水曜日

海から見た東北地方の過去と未来 2 東北の過去


(7) 戦国時代(15世紀後期~16世紀後期)

 東北地方では守護大名が領域支配を早々と確立し、最上義光、伊達政宗、南部晴政、安東愛季、津軽為信などの戦国大名が誕生します。一方、越後には上杉輝虎(上杉謙信)が登場しました。

 その頃中央では、尾張に登場した織田信長は急速に支配地域を拡大していき、室町幕府に代わる畿内政権を樹立しました(1573年)。しかし、信長は本能寺の変(1582年)によって滅ぼされ、代わって豊臣秀吉が全国を平定して統一事業を成しました(1590年)。豊臣秀吉の奥州仕置によって東北の有力諸藩は安堵されましたが、東北諸大名を牽制するため、豊臣秀吉は上杉景勝を越後から伊達、会津、置賜、庄内に移封しました。これによって、最上氏は南と西から上杉氏に挟まれる事となり、上杉氏にとっても置賜と庄内を最上義光に遮断されることとなり、ここに両氏は緊張関係となりました。

 ちなみに、織田信長の次男・織田信雄は家督を継ぎ、初代天童藩主となっておりまして、天童には織田宗家の菩提寺や信長を祀った建勲神社があります。


wikipedia 織田信長

上杉 vs 最上・伊達 ~東北における関ヶ原の戦い(1600年)

 敵対勢力である上杉景勝を討つため会津に迫った徳川家康のもとに、石田三成の挙兵の知らせが届き、家康は会津攻めから反転、西上します(関ヶ原の戦い)。するとすかさず上杉景勝は最上氏を攻めました。最上を滅ぼせば後顧の憂い無く家康と対峙できるからです。上杉軍の総大将は直江兼続で、最上軍の3倍以上の兵力で侵攻しましたが、最上勢は抵抗堅く、攻め落とすことができずにいました。そこに最上義光の甥にあたる伊達政宗は援軍を送り、加えて関ヶ原の本戦において西軍が大敗したという報がもたらされたことで今度は攻守逆転。撤退する上杉軍を最上軍と伊達軍が追撃することになりました。上杉軍の後駆を務めたのがマンガで有名な"傾奇者・前田慶治"こと前田利益で、追撃をする最上軍を食い止め、上杉軍を無事米沢に還しました。この撤退戦は見事で、最上義光は兼続に感服し、家康も兼続を賞賛したといいます。この結果、伊達政宗は微増の62万石となり、最上義光は庄内地方の支配を認められ出羽54万石を与えられました。これは政宗の力を恐れた家康が、伊達への押さえとして最上氏を重要視したためと考えられます。かたや上杉景勝は庄内、会津などを没収され、米沢30万石を許されました。

 関ヶ原の戦いにおいて曖昧な態度をとったとして水戸の佐竹氏は秋田に移封されました。秋田藩(正式には久保田藩)の藩祖である佐竹義宣は「国の宝は山であり、山の衰えは国衰である」と山林保護に力を入れた人物でもあり、その伝統は現在も秋田杉の美林につながっています。

サン・ファン・バウティスタ号

 さて、東北の戦国大名といえば何といっても伊達政宗ですね。政宗は"伊達者"という言葉が示すように、斬新で新進の気風を持つ名将です。政宗は1601年に城下町・仙台を建設し、仙台城に居城を移します。また、この時代に西洋型軍艦サン・ファン・バウティスタ号を建造して、家臣の支倉常長ら慶長遣欧使節団をメキシコからスペイン、ローマにまで派遣し海外貿易を試みています。しかし、常長が帰国したときには既に日本は鎖国しており、常長の功は実ることはありませんでした。

wikipedia サン・ファン・バウティスタ号

支倉常長

 この時、使節団が持ち帰った唐辛子が後に朝鮮に渡り、国民食といわれるほどになったという説があります。

(8) 江戸時代(1603年-1867年)

 豊臣秀吉の死去後、関ヶ原の戦い(1600年)に勝利した徳川家康は征夷大将軍となって江戸幕府を開き(1603年)、大坂の役で豊臣氏を滅ぼしました(1615年)。江戸時代、東北の有力大名としては、米沢に移った上杉氏、2代将軍秀忠の子・保科正之を家祖とする会津松平氏、仙台の伊達氏、秋田の佐竹氏、盛岡の南部氏などがあります。

流通革命~東廻り航路・西廻り航路

 河村瑞賢は伊勢に生まれ、江戸に出て土木工事の人夫頭から、江戸きっての木材商となった人物で、東廻り航路、西廻り航路の開拓者として知られます。1671年、幕府の命を受け、阿武隈川河口から房総半島を回って伊豆国下田へ入り、直接江戸湾に運ぶという新たな航路(東廻り航路)を開きました。東廻り航路はその後、津軽海峡を経て酒田までのびることになります。さらに、翌1672年には、出羽国酒田から日本海沿岸を回り、瀬戸内海・紀州沖・遠州灘を経て江戸に入る航路(西廻り航路)を開きます。西廻り航路はその後北海道まで伸びる北前航路となります。これによって、輸送に要する時間と費用を大幅に削減することができ、江戸時代の海運の発展に寄与しました。北上川河口の石巻や最上川河口の酒田は河川輸送と海上輸送を結ぶ物流の拠点として大いに繁栄しました。仙台藩領に加え、北上川を下って南部藩領からも集められる米は、石巻から江戸に運ばれ、当時江戸で流通する米の半分を占めていたといいます。

 東北地方の方言には、西廻り航路の港町があった地域には京言葉や大阪弁などの影響がみられ(津軽弁、下北弁、秋田弁、庄内弁)、東廻り航路の港町があった地域や江戸への主要街道が通っていた地域には江戸言葉の影響がみられる(南部弁、盛岡弁、仙台弁、福島弁)とされます。もっとも他の地域の人が聞けばどれも東北弁でしょう。

「本間様には及びもないが せめてなりたや殿様に」

 河村瑞賢が西回り航路を整備すると、酒田は「西の堺、東の酒田」ともいわれほど、奥州屈指の港町として繁栄します。戦後の農地改革まで日本一の大地主で、琵琶湖の所有者でもあった本間家などの豪商が活躍しました。最も権勢を誇った三代目・本間光丘は私財を投じて庄内砂丘に防砂林の植林をするなど、酒田繁栄の基礎を作った人物でもあります。

「為せばなる為さねばならぬ何事も」

 江戸時代屈指の名君として知られている上杉治憲(上杉鷹山)は日向国高鍋藩主の次男として江戸に生まれました。母方祖母が米沢藩主の娘であったことから、10歳で米沢藩主の養子となり、1768年に米沢藩を継ぐことになります。当時米沢藩は借財が累積する一方、石高に対する家臣の割合が異常に高かったといいます。治憲は自ら倹約を進め、帰農を奨励し、作物を育て、飢饉に備えた民間用災害対策マニュアルを整備するなどして、天明の大飢饉の中でも一人の餓死者も出さなかったといいます。また、藩校・興譲館を再興させ、藩士・農民など身分を問わず学問を学ばせました。これによって破綻寸前の藩財政を建て直し、借債を完済しました。

良い議員の選び方 ~仕組まれた狂乱物価~

 伝国の辞とは、鷹山が家督を譲る際に申し渡した3条からなる藩主の心得です。

一、国家は先祖より子孫へ伝候国家にして我私すべき物にはこれ無く候
一、人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にはこれ無く候
一、国家人民の為に立たる君にて君の為に立たる国家人民にはこれ無く候
右三条御遺念有るまじく候事

有名な「なせばなる なさねばならぬ何事も ならぬは人の なさぬなりけり」の歌は「伝国の辞」と共に次の藩主に伝えられました。

(9) 明治以降(1868年~ )

奥羽越列藩同盟 vs 明治新政府軍 ~戊辰戦争(1868年,慶応4年/明治元年)

 京都守護職にあった会津藩は新撰組を配下に持ち、また禁門の変では孝明天皇がいる御所に向かって砲撃した長州藩を撃退しました。また、江戸警護役の庄内藩は、江戸市中で火付け強盗など民間人を巻き込むテロ活動した薩摩藩に対し、幕府の命で薩摩藩邸焼き討ちを実行しました。その後、王政復古で幕府側と薩長の立場が逆転すると、今度は長州藩と薩摩藩が会津藩と庄内藩を朝敵として藩主の首を差し出すよう要求してきたのです。会津藩・庄内藩の征討を命ぜられた東北諸藩は両藩に深く同情し、また東北勢の同士討ちを嫌って、会津藩庄内藩の赦免嘆願を行う一方、奥羽列藩同盟を結成しました。その後長岡藩はじめ越後諸藩が加わり奥羽越列藩同盟となって結束を強めましたが(正確には嘆願の当事者である会津藩と庄内藩は列藩同盟に加わるわけにいかず、会庄同盟が結成されています)、赦免嘆願かなわず、ついに開戦にいたります。しかし、同盟といえど諸藩の中には温度差があり、次第に新政府側に寝返る藩も出てきて、同盟は瓦解していきます。米沢藩、仙台藩と盟主格2藩が降服すると、他の藩も次々に降服し、激戦の末会津藩が陥落すると庄内藩も降服して、戊辰戦争の東北のおける戦いは終結しました。

長岡藩 vs 政府軍 ~北越戦争(1868年)

 長岡藩家老・河井継之助は、明治新政府軍と奥羽列藩同盟の戦いに際し、武装中立を考えていました。しかし政府軍にこれを拒否され、これによって長岡藩は奥羽列藩同盟に参加、新政府軍の間に北陸戦争が開かれるに至りました。長岡藩は河井の指揮の下、ドイツから購入したガトリング砲をもって激しく抵抗し、新政府軍は多くの被害を出しましたが、ついに長岡城は陥落し、会津へ敗走することになりました。戦後は小林虎三郎が要職つき、三根山藩から寄贈された米百俵を「国が興るのも、街が栄えるのも、ことごとく人にある。食えないからこそ、学校を建て、人物を養成するのだ」と、その売却益を学校教育に当てたことで有名です。

会津藩 vs 政府軍 ~会津戦争(1868年)

 会津松平家初代・保科正之は2代将軍秀忠の子で、異母兄である3代将軍家光にたいそう可愛がられました。家光は死に臨み、徳川宗家を頼むと正之に言い残したことから、正之は『会津家訓十五箇条』を定め、その第一条には「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在であり、藩主が裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない。」と記して代々伝えます。以来、会津藩この遺訓を忠実に守り、幕末にはその忠信ゆえに京都守護職を任せられました。実は、当時会津藩財政は窮乏を極めており、藩主・松平容保は当初就任を断っていましたが、会津家訓を引き合いに出されるにいたって遂に承諾したといわれます。この時、君臣は「これで会津藩は滅びる」と慟哭したといいます。


国立国会図書館:近代日本人の肖像

 会津戦争はご存じのように熾烈を極めます。会津軍は多くの戦死者を出しながら奮闘しますが、次第に同盟諸藩の降服が相次ぎ、孤立した会津軍はついに降伏します。その後、長州派が担当した会津藩の処分は苛烈で、会津23万石から陸奥斗南藩(下北半島)3万石に転封、おびただしい戦死者の遺体は埋葬を許さず、そのため鳥獣に貪られ腐敗にまかされる凄惨な有り様でした。埋葬が許可されたのは実に5ヶ月後だったといいます。そのため、会津地方の人々の薩長に対する恨みは深く、長くわだかまりを残したといいます。



wikipedia 会津戦争

西郷南洲先生遺訓

 一方、庄内藩は最後まで連戦連勝でしたが、会津陥落の報を聞き、勝ったまま開城しました。庄内藩の戦後処理を担当したのは薩摩の西郷隆盛で、西郷は庄内藩の武士が誇りを失わぬよう帯刀を許し、逆に進駐する政府軍には帯刀を許さず、寛大な処分を下しました。厳しい処罰が課せられるものだと覚悟していた庄内藩士は西郷の度量に敬服し、敵将である西郷を敬愛するようになりました。その後、藩主・酒井忠篤は藩士70名とともに鹿児島に西郷を訪ねて教えを請い(1870年,明治3年)、庄内藩士はその教えを「西郷南洲爺遺訓」としてまとめ、世に広めました。その冒頭は以下のような言葉で始まります。

一 廟堂に立ちて大政を為すは天道を行ふものなれば、些とも私を挟みては済まぬもの也。いかにも心を公平に操り、正道を踏み、広く賢人を選挙し、能く其職に任ふる人を挙げて政柄を執らしむるは、即ち天意也。夫れゆゑ真に賢人と認むる以上は直に我が職を譲る程ならでは叶はぬものぞ。故に何程国家に勲労有り共、其職に任へぬ人を官職を以て賞するは善からぬことの第一也。官は其人を選びて之を授け、功有る者には俸禄を以て賞し、之を愛し置くものぞと申さるるに付、然らば尚書仲 之誥に「徳懋んなるは官を懋んにし、功懋んなるは賞を懋んにす」と之れ有り、徳と官と相配し、功と賞と相対するは此の義にて候ひしやと請問せしに、翁欣然として、其通りぞと申されき。

http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/85_1.html

 西南戦争(1877年,明治10年)の際には庄内藩士も薩摩軍に加わりともに戦い散ったといいます。そのような縁で、庄内には南州神社があります。ちなみに、現代の論客である渡部昇一氏と佐高信氏はともに庄内出身で、ともに西郷論を書いています。

 奥羽各藩はそれぞれ過酷な転封・減封を受け罰金を科せられました。居城は弘前城と久保田城(秋田城)の他は、みな取り壊されました。奥羽越列藩同盟の盟主仙台藩もまた青葉城を焼き払われ、伊達政宗晩年の居城であった若林城は取り壊されたうえ宮城刑務所が建てられるという屈辱を与えられました。また、伊達藩家老6人中4人が死罪となるなど、藩政は大きく揺らぎ、困窮した家臣団は北海道に大量に移住しました。

 長州閥の会津に対する処遇と西郷の庄内に対する処遇とでは、その品性度量が全く違いますし、それによって敗者が抱く念も全く違うものになってきます。西郷の姿は武士のそれですが、長州の姿勢には武士道を感じません。長州の背後には今でいう国際金融資本の影があったという話がありますが、なにか関係があるのでしょうか。後に明治新政府と袂を分かつことになる西郷の遺訓には、このような一節も見られます。

四 万民の上に位する者、己れを慎み、品行を正しくし、驕奢を戒め、節倹を勉め、職事に勤労して人民の標準となり、下民其の勤労を気の毒に思ふ様ならでは、政令は行はれ難し。然るに草創始に立ちながら、家屋を飾り、衣服を文り、美妾を抱へ、蓄財を謀りなば、維新の功業は遂げられ間敷也。今と成りては、戊辰の義戦も偏へに私を営みたる姿に成り行き、天下に対し戦死者に対して面目無きぞとて、頻りに涙を催されける。

「白河以北一山百文」

 廃藩置県によって東北の各藩も幾度かの統廃合を経て現在の県に落ち着きます(1876年,明治9年)。新潟県は長岡ではなく新潟に、福島県は会津ではなく福島に、山形県は庄内ではなく山形に、青森県は弘前ではなく青森に県庁が置かれましたが、これは懲罰的な意味合いと新政府に遺恨を持つ東北の力を削ぐ意図があったのではないかという見方があります。加えて、戊辰戦争の戦後処理による貧困化によってテクノクラートであった士族階級が流出したことや、明治政府の施策も東北を飛び越え北海道の開拓に力を入れ、その後も台湾、朝鮮、大陸と拡大したこともあって、東北地方は大きく取り残されました。人口を支えられるだけの有効な経済が育たなかったため、東北地方は貧困にあえぎながら食料と労働力の供給地となりました。明治以降、長州閥が幅をきかせる中しばらくは、東北諸藩の出身者はあからさまに「朝敵」と嘲られ、「白河以北一山百文」と侮蔑され、また人材登用でも不利を受けていたといいます。

 そんな中、東北は様々な人材を輩出しています。板東俘虜収容所所長・松江豊寿は会津藩士の子ですし、石原完爾は庄内藩士、甘粕正彦は米沢藩士、東条英機は盛岡藩士(出身は東京)の子息です。ちなみに連合艦隊司令長官・山本五十六は奥羽越列藩同盟長岡藩士の子であります。また、「武士道」で知られる新渡戸稲造は盛岡藩士の子です。岩手県は、原敬をはじめ、斎藤実、米内光政、鈴木善幸と、総理大臣を輩出したところでもあります。原は、戊辰戦争殉難者50年祭において「戊辰戦役は政見の異同のみ」とした祭文を読み、賊軍・朝敵の汚名を雪ぎましたが、それまで50年の歳月を要します。

 また東北は江戸時代にも安藤昌益、平田篤胤、佐藤信淵、高野長英、大槻玄沢といった学者・思想家が生まれ、明治以降も斎藤茂吉、志賀直哉、石川啄木、宮沢賢治、太宰治、小林多喜二、あるいは大川周明といった左右硬軟さまざまな文人・思想家が出て来ましたし、現在もまた前述の渡部・佐高両氏をはじめ、小室直樹、井上ひさし、鈴木邦男、瀬戸弘幸といった各氏がそれぞれの立場で活動しております。

東北人の底に流れるメンタリティ

被征服の歴史、非征服の歴史

 東北の戦いの歴史は、互いの勢力争いはあるものの、対中央政権ということでみますと、もっぱら抵抗の歴史だったように見えます。逆に東北から中央を目指して侵攻するということはありません。この被征服の歴史というのは東北人のメンタリティになにかしらの影響を与えたでしょうか。敗れしもの、虐げられしものとしての怒りや反骨、恨み節、あるいは妬みといったものもありましょう。しかしこうした情緒には個人の歴史が反映されてくる場合も少なくないので、それをもって平準化された東北の心情というには注意が必要です。とはいえ、遅れた地域、田舎者といった劣等感や、閉鎖性や排他性といった要素が多かれ少なかれあることは否めないような気がします。

理想郷への憧憬

 私は、松江豊寿の"バルトの楽園"、宮沢賢治のイーハトーヴ、石原完爾の満州国の話を聞きますと、理想郷への憧憬といったような、どこかファンタジックなセンチメンタリズムを感じます。井上ひさし氏の「ひょっこりひょうたん島」もそうかな。もしかしたら東北人には失われた縄文の世界を理想化し懐かしみつつ、理想郷を希求する気持ちがあるのかもしれません。

縄文アニミズム

 遠野物語で東北の民俗学に光を当てたのは柳田國男ですし、東北に縄文のパッションを再発見したのは岡本太郎でした。獅子踊り(鹿踊り)、ナマハゲ、マタギ...、東北はその底流に森と大地に神をみるアニミズム、自然とともに生きる縄文の文化を抱えているように思います。縄文アニミズムは日本の根底にも流れており、それが神道のベースとなって、支那思想・仏教・西洋思想など様々な文明を包含してゆく溶媒となったのではなかろうかと想像いたします。

 東北は原日本的な縄文の香りを残しますが、どこか北方アジア~コーカサス系の要素も感じます。青森・秋田方面には色白でグリーンの瞳をしている人がたまにいますよ。私自身はいくらか縄文寄りかなと思いますが、耳垢はカサカサです。とはいうものの、東北も長い間にすっかり日本と同化しましたので、お正月には神社に初詣に行きますし、お盆には墓参りをします。クリスマスには街路樹が光ります(東北にはキリストの墓があるくらいですからね)。いまさら被征服者の歴史を強調して反目しようとも思いませんし、まして"差別"に利用されるのもゴメンです。私は、日本人としてアイデンティティを感じるとともに、縄文人にシンパシーを感じますし、縄文の人々が長く暮らした東北の風土を内心誇らしく思っています。

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