2009年4月25日土曜日

組織の崩壊と機能の維持 3 希望的観測と兵站の軽視

兵站といえば、石油公団の岩間敏氏が書いた『石油で読み解く「完敗の太平洋戦争」』(朝日新書.2007)という本があります。さすが石油公団で仕事をされてきただけあって、戦争遂行を支えるエネルギーという視点から、太平洋戦争と旧帝国陸海軍の組織を詳細に検証しています。

世界最初の石油危機

岩間氏はまず、当時の日本の置かれた状況というのは、米国の「石油禁輸」によって、日本が世界で最初の「石油危機」に直面したと指摘しています。当時、日本の石油自給率はわずか8%、そのうちの80%は当時の石油輸出大国アメリカから輸入していたものでした。この時点でアメリカと戦争をするというのがいかに無謀なことかわかります。1863年、ジョン・D・ロックフェラーは石油の商業的生産に成功し、スタンダード石油を設立して石油文明を築き上げました。当時アメリカは世界最大の石油生産国・輸出国でありました。第二次世界大戦直前の原油生産量は実に日本の740倍という桁違いのものでした。またその品質においても精製技術には格段の開きがあり、アメリカが航空機用燃料に100オクタン価の高性能ガソリン使っている時に、日本では87オクタン価のガソリンを精製するのがやっとでした。

都合の良い未来

そのアメリカが東アジアの大陸利権を睨みながら、日華事変を理由に経済制裁で圧力をかけてきたのです。経済戦には、国際政治、経済、地政学に及ぶ広い戦略的視野が必要です。当時これに対処したのは軍部でしたが、その軍部には戦闘・兵科の専門家はいたものの、そのようなジェネラリストはほとんどいなかったのです。その軍部の思考判断について岩間氏は、「「石油禁輸」が行われる五日前の『大本営機密日誌』には、「戦争指導班は資産の凍結を石油の禁輸とは思わず、米国はせざるべしと判断す」と、いまから見ると驚くほど楽観的な記述がある。(p5)」とあきれています。自分の願望から世の中を見て判断する希望的観測。「こうあってほしいから、こうあるはず」という、まるで合理性を欠いたものの見方です。これは世界情勢、国際政治に疎いということもありましょうが、不都合な現実を否認しているともいえましょう。指導者としてはお粗末なことです。

ちぐはぐな石油確保の努力

『アメリカは日本の南進を瀬戸際外交と思って黙認する。石油禁輸はない』と勝手にふんでいた軍は、実際に石油禁輸が発動されて、あわてて石油の確保に走ります。当時油田が見つかり石油の供給地として注目を集めた中東に使節を派遣し、交渉にあたりますが、岩間氏よれば「石油権益の確保には対象国の政治的人脈の把握、優良な権益条件の提示、直接権益以外の開発計画への支援、助成が複雑に絡み合った忍耐強い交渉力が必要であるが、日本はそのような交渉を経験したことがなかった。(p30)」とういことなので、日本がポッと行ってなんとかなるものでもありません。まして、サウジアラビアの石油権益はロックフェラーが開発権を獲得して開発したものです。最新の採掘技術を持つ石油大国アメリカの不興を買ってまで日本に協力するということは考えられないことでした。

実は石油は満州にありました。実際、大戦後、中国はソ連の技術協力を得て、大慶油田群を開発しています。最盛期には日産100万バレルを生産した大慶油田群は、現在においても日産80万バレルを生産する中国最大の油田です。日本は満州領内の探鉱作業を進め、地質調査と試掘を行っていましたが、石油を掘り当てることはできず、「アスファルト鉱床は存在するものの、商業化は難しい」という報告書を出して断念していました。そのうち、オランダがドイツに占領されたために空白化したオランダ領インドネシアの南方油田群を日本が占領したため、満州石油は顧みられなくなりました。

四正面戦争?

さて、石油禁輸をうけ窮まった日本は、戦争に打って出るしかないという急進的な意見が多数を占めるようになり、その声高な勢いに、冷静で粘り強い意見は圧殺されました。ところが日本は開戦直後まで、北進すべきか南進すべきかで方向が定まらずにいました。御前会議で「情勢の推移に伴う帝国国策要項」が決定されました、その内容はというと、
①中国との戦争は継続する
②北のソ連へはドイツ軍の攻勢状況が有利に展開すれば攻め込む。
③米国とは「日米交渉」を継続しながら戦争準備を備える。
④南方への進出を図り米英と戦争になっても致し方なし。
というものだったといいいます。成り行き次第で四正面戦争ですよ。石油のバルブを止められているというのにです。兵力、工業生産力、輸送力、燃料・物資・食糧の補給、戦費....まったく国力の現状を無視した発想です。ここでも不都合なことは見ないという性向が顕れているといえましょう。

冷静な分析は黙殺された

では、軍部は日米の国力差を含めて現状をまったく理解していなかったのかというと、実は冷静な報告もあったのです。陸軍の「戦争経済研究班」は、太平洋戦争開戦の年の7月、「英米合作経済抗戦力調査」という報告を提出しています。それによると、イギリス単独での戦争遂行は不可能。アメリカ単独での戦争遂行は国力の60%で十分可能。英米共同戦争の場合、開戦当初はアメリカにイギリスを援助する余力はないが、1年~1年半後にはイギリスの不足分を補うことが出来る。と分析し、アメリカを対独戦へ追い込み、その経済力を消耗させ、生産力の低下、反戦気運の醸成を図り、英、ソ、南米諸国との本質的対立を利用する戦略を採用するのが妥当。という報告をしています。つまり謀略を駆使せよということです。これに対し、当時の杉山元陸軍参謀総長は、「調査は完璧であるが内容は国策に反する。報告書は焼却」と指示したといいます。調査の正当性を認めつつ、国策に反するという理由から焼却です。

また、同年四月に「総力戦研究所」が研究したところによると、民需用船舶の最低維持量の約300万トンは、戦争3年間で120万トンまで減じると予測し、「戦争は我が国力の許すところとならず」と結論づけています。さらに同年六月、陸軍経理将校・新庄健吉がまとめた「米国国力調査」では、「日米工業力の差は重工業1対20、化学工業1対3、この差を縮めるのは不可能」というもので、これはワシントン駐在の岩畔豪男陸軍大佐に託され軍幹部に説明されましたが、海軍からは「対米戦準備の最中に、このような数値を発表することは士気に影響がでる」と反対され相手にされませんでした。ここでも、不都合なものは見ない精神が発揮されています。

無理矢理見る夢

一方、海軍軍令部もまた石油需要見通しを算定しています。「海軍国防政策委員会」の石川信吾大佐は、「仏印進駐を実行しても米国は石油禁輸を実施しない」と説得してまわり、南進論を推し進め、結果として太平洋戦争を引き起こした人物として知られます。その石川大佐が同じ年の6月に、「現情勢下に於いて帝国海軍の採るべき態度」という報告書を提出し、燃料関しては作戦上相当の自信を以て対処しできる。輸送力及船舶問題は、総数600万トンの10%、即ち60万トンの補充は可能とし、「帝国海軍は皇国の安危の重大事局に際し、帝国の諸施策に動揺を来さしめざる為、直ちに戦争(対米を含む)決意を明言し、強気を以て諸般の対策に臨むを要す。秦仏印に対する軍事的進出は一日も速やかにこれを断行する如く努むるを要す。」と結論づけています。しかしこの燃料補給の見通しは、石油の不足分は人造石油、ソ連からの購入、南方還送で補うとしており、都合のよい見込みで述べているにすぎません。取らぬ狸の皮算用を地で行くような計画ですね。

この見通し、開戦後実際にはどうだっかというと、人造石油はエネルギー利益率(EPR)が0.5と、2のエネルギーを突っ込んで1のエネルギーを取り出すという代物でしたし、ソ連からの購入分は減少、南洋油田群の石油はアメリカの潜水艦に補給路を絶たれて還送できずと、もろくも崩れます。

また、造船量についても報告書は「(新造船量は)大体第一年目四〇万トン、第二年目六〇万トン」という見通しを示しています。これに対し、嶋田海相からは「若い者は楽観に過ぐ、艦艇修理もあり、造船(能力)はその半分二〇~三〇万トン」と言われ、さらに鈴木企画院総裁からは「然るに若し嶋田海相の言う如く造船能力半減の場合は第三年目には民需は一九〇万トンとなり国力の維持不安なり」と看破されましたが、この発言もいつのまにか捨て置かれ、石川大佐の報告は「戦争遂行は可能!」という結論となって一人歩きし始めました。都合の悪い現実はないことにして、都合の良い未来は捏造までして見ようとしたのです。

兵站の重要性を認識しない攻撃

日本軍が兵站を重要視していなかったことは、真珠湾攻撃の中にも見て取れます。真珠湾攻撃によってアメリカ軍は重大な被害を受けました。しかしこの時、日本軍は戦艦等を破壊することを目標としており、船艦の修理保全を行うアメリカ軍の海軍工廠や燃料備蓄用石油タンクなどの兵站設備を攻撃目標と考えていなかったのです。もしこの450万バレルの石油タンクが完全に破壊された場合、再建造には半年から1年かかり、その後石油の再備蓄には、石油輸送タンカー64往復、5隻体制でピストン輸送しても7ヶ月必要なため、これによってアメリカ海軍機動部隊の行動を1年半から2年ほど制限することができたと、岩間氏は推定しています。また、艦艇の修理を行う米軍の海軍工廠施設もまた破壊されずに温存されたため、真珠湾攻撃で被害に遭った米太平洋艦隊戦艦の8隻のうち、4隻は翌年早々には修理が完了し、沈没着底した2隻も2年後には浮揚修理されて戦線に戻っています。海軍工廠と石油備蓄が温存されたおかげでアメリカ海軍は行動を制限されず、その後日本はミッドウェー海戦で苦杯を喫することになります。

もしも、真珠湾攻撃で、石油タンクと海軍工廠を破壊していたなら、太平洋でのアメリカ海軍の行動を大きく制限していたでしょう。その間、全力でインド洋を制圧すればイギリスの補給を絶つことができ、それをもってイギリスとの講和に持ち込むことができたかもしれません。そうすればイギリスを仲立ちにアメリカとも交渉の糸口が見たかったかもしれない。いずれも敵軍部隊を叩くことに執心し、補給・兵站という考えを軽視しているが故の盲点であったように思います。戦争は踏み切るよりも、着地点を見つけるのが難しい。そこは国際的な視野と戦略、それに柔軟な駆け引きが必要になります。

「陸軍と海軍は別々に戦争をしていた」

よくいわれることですが、今日帝国陸軍と海軍では、互いの連携がとれてはいなかったは有名な話しです。露骨に「互いに足の引っ張り合いをした」という人もいます。石油においても、この連携のなさが顕れています。オランダ領インドネシアを占領し、南洋石油を確保した日本ですが、その管理はというと、陸軍と海軍は油田施設を分割して占領していました。戦争の進展にともなって海軍の石油消費量は増大し、石油不足は深刻化しましたが、陸軍が占領している油田の積出港に海軍タンカーが入港しても、直ちに石油が補給されなかったといいます。しかも、陸軍と海軍の石油施設の占領比率は85対15でした。陸軍・海軍のセクショナリズムが強かったことをあらためて示していますが、同時に、戦略的見地から全体を統括し制御するものが不在であったことが痛感されます。

これは「過去の話」か

以上、石油戦略を通して旧帝国陸海軍を見た時、そこに組織の問題点が浮かび上がってきます。そしてその問題点は、過去の特殊な状況だけのものと言い切ることはできません。岩間氏は、

最後に、本書では、太平洋戦争を石油の視点から見てきたが、その中で「情報の軽視」「専門知識の不足」「その場しのぎの対応」など政策決定集団の組織、能力に多くの問題があったことを明らかにした。戦後六〇年の歳月を超えた現在、これらの日本的システムの問題点が政治、ビジネス、官僚組織の中で温存、継続、再生されて、当時と同様の状況を生じさせていることに気がつく。日本(人)の習性、教育、制度がそれらの問題点を再生させていると考えるが、それらに対処して、改善することが、戦争を省みる最大の目的であるともいえる。本書がこれらの歴史的教訓の上に、今後のエネルギー問題と日本的システムの改善を考える契機として頂けるなら著者としても望外の幸せである。

と結んでいます。

コミュニケーションの重要性

日本は世界初の石油危機に直面して戦争に突入していきました。エネルギー枯渇によって社会基盤を喪失するのですから死活問題です。しかし石油禁輸が発動されるまで、そして石油危機が発生してからも、当の日本軍の対応は、不都合な現実を否認して都合のよい未来しか見ようとしないというものでした。そのような希望的観測や、兵站の軽視、輸送ルートの無防備、陸海軍の縄張り意識、場当たり的対応などの背景には、多方面に精通し、かつ全体を総合的に統括し、世界的な戦略に基づく視点で物事を見るリーダーの不在があります。そして互いのセクションが有機的に連動するネットワークの不在があります。兵站は英語で communications ですが、これはたいへん象徴的であると感じます。

太平洋戦争は、世界最初の石油危機ではじまり、世界最初の原爆投下で終わりました。その後に訪れたのは、さらにひどい石油枯渇と経済破綻と貧困でした。幸いにして、当時はそれでもまだ日本の外の世界には石油がありましたし、アメリカからの物資の流入もありました。では、現在のそしてこれからの世界はどうでしょう。今度は世界規模で石油危機が起こります。外の世界はありません。そのような状況に際して何が必要なのか、やはり、ジェネラリスト型のリーダーと、そのようなリーダーを育成供給する教育、そしてコミュニケーションが重要になってくるのではないでしょうか。ジェネラリストは general、将軍です。日本において将軍は武家の棟梁でした。

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