2009年4月25日土曜日

組織の崩壊と機能の維持 5 至誠のこころ

これまで、組織が硬直化し機能を失うことの例として、旧帝国陸海軍を題材にして見てまいりました。しかし、そんな旧日本軍の中にあって、ひときわ異彩を放つ集団がありました。いわゆる「陸軍中野学校」です。自身が陸軍中野学校の卒業生である加藤正夫の著書『陸軍中野学校の全貌』(展転社.1998)には、およそ旧日本陸軍らしからぬ、中野学校の教育思想が記されています。

中野学校創設

陸軍中野学校創設の動きは、盧溝橋事件から日中戦争の始まった1937年(昭和12年)、岩畔豪雄中佐が参謀本部に「諜報謀略の科学化」という意見書を提出したことに始まります。当時すでに、日本陸軍は過去の成功体験に依って、軍の近代化や幅広い有能な人材の登用を怠り、硬直した組織となっていました。しかし、そのような状況に危機感をおぼえる者もおり、岩畔もまたその一人でした。岩畔は、近代戦は情報戦の持つ重要性が全体を左右するほどに大きくなるとの認識から、諜報勤務の専門職養成のための教育機関の必要を説いたのです。それを受けた陸軍省は創設を決定し、翌1938年(昭和13年)過渡的措置として「後方勤務要員養成所」設置、開校の準備を進めました。

そして、ノモンハン事件の起こった1939年(昭和14年)、陸軍中野学校は開校しました。この中野学校の創設にあたり、その存在は陸軍内部でも極秘であったといいます。しかしながらその校風は、戦時中で最も自由主義的であったといわれ、学生は通常軍服は着用せず、当時作られた国民服などの平服を着て、頭髪も長髪にするなど社会人並みの服装をしていました。まあ、平服こそが彼らの仕事着でもありますから。


異端の気風

中野学校の学生は、広い知識と柔軟で融通のきく能力を持つ「秘密戦士の資格」が必要であるとの考えから、一定の型にはまらない一般大学、一般高専出身者と重点に採用する基本方針をとっていました。出身校は東京大学が最も多く、拓殖大学、東京外国語大学、早稲田大学、慶應義塾大学、明治大学などが続いたといいます。一般大学の学生が重用されたのは、彼らが、軍人というスペシャリストよりも、幅広い知識や柔軟な判断を持ち、民間人として自然な振る舞いができると期待されたためでしょう。そのような学生を採用するわけですから、そこにはかなりの苦心がありました。優れた人材を選抜することはもちろんですが、学校の性格上、その内容を秘匿するために相当に苦労したようです。また、そのようなわけで、本人の意志に反して入校を強要しないという点においても、当時の他の軍部学校とはかなり異なっていました。

「陸軍中野学校の全貌」の著者、加藤氏は、その先進的で柔軟な発想を「民間出身者をも含めてその要員を採用した英断については、当時の先覚者たちに敬意を表さなければならない(p27)」と賞賛し、また中野学校の極めて重要な貢献を讃えつつも、「しかしそれは、すでに遅きに失していた。歴史に仮説は許されないと思うが、もう十年早く陸軍中野学校ができていたら、あるいは戦争は回避できたかもしれないという回顧は、死児の齢を数えるに等しいことだが、悔いは残るのである(p27)」と無念さを綴っております。稀代まれなる陸軍中野学校は、1945年(昭和20年)、日本の降伏と軍部の解体をもって、8年という短い歴史に(表向きは)幕を降ろしました。


中野学校の基本理念

陸軍中野学校の教育の理念は至誠であったといわれます。中野学校では、「秘密戦要員教育の基本的態度」を次のように定めていました(p39)。

第一、同志的組織力の重視。
第二、高度な科学技術の重視
第三、各要員の持つ専門的知識と資格を十分に活用する
第四、確固不動の信念に燃える不撓不屈の人間形成

第一の「同志的組織力の重視」とはなんでしょう。それは中央集権的な上意下達の集中型組織を意味しません。同志が互いに結びつきコミュニケートする分散型ネットワークといえましょう。これは実はジェネラリストとしての思想がないと成り立ちません。
第二の「高度な科学技術の重視」は科学や技術に対する高度な理解、合理的思考を重視することを求めています。理系の頭脳と言ってもいいでしょう。
第三の「各要員の持つ専門的知識と資格を十分に活用する」とは、各個人はおのおの何かしらのスペシャリストたりうることを必要とされています。実際、二つの外国語、二つの職業をマスターすることが求められたいいます。
第四の「確固不動の信念に燃える不撓不屈の人間形成」。特に最後の不撓不屈の精神は、陸軍中野学校の学生・同志に歌い継がれた「三々壮途の歌」に見られます。歌詞中、「神よ与えよ、万難我に」という一節がありますが、著者の加藤氏はこれを「任務遂行のための至上命令のために、たとい捕虜になる辱しめを受けたり、永劫の汚名を着せられても、あえてこれを甘受して、あくまでも生きのび、万難を克服して任務を完遂するということである(p51)」と解説しています。なんという壮絶な覚悟でしょう。そしてこの歌は、中野学校の目的とする大義をアジアの解放であると歌っています。これについて「そのためには「仁徳」を身につける必要があって、その仁を得る境地にまで心を高めるには、日夜、大義を求めて精神修行するほかないというのである(p51)」と加藤氏は述べています。実際、中野学校の卒業生はアジア各地に散り、日本が敗戦してからもなお、地元民と共に民族独立の戦いに身を捧げた者も幾多ありました。


中野学校の根本精神はまごころ

市川雷蔵主演の映画「陸軍中野学校」の中では、劇中の"草薙中佐"をして、

「本当のスパイは、人を殺したり、物を盗んだりする犯罪者じゃない。そんなスパイは下の下だ。スパイの根本精神は「誠」だ。....そうだ。真心だ。俺が考えているスパイは、日露戦争中、露西亜で活躍した明石大佐だ。明石大佐は真心をもって露西亜の民衆と交わり、彼らを幸福にするためには露西亜皇帝の政府を倒さなきゃならんと考えた。大佐は共産主義者レーニンの親友となり、武器を与え、露西亜政府を動揺させ、日露戦争を勝利に導いた。大佐がいなかったら日本は負けていたかもしれん。これが本当のスパイだ。俺の理想は、君たちを一七人の明石大佐に育て上げ、世界の各国に送り込むことだ。諸君はその土地の人民の友人となり、悪質な政府や侵略者と戦ってもらいたい。特にアジア、アフリカでは植民地を解放し、全ての民族を独立させるんだ。」
「このままではくだらん政治家や将軍どもが、アジア全体を敵に回し、日本を滅ぼしてしまう。諸君。彼らと戦って、日本を救ってくれ。」
「君たちは青年だ。青年に出来んことはない。明治維新を成功させたのも青年だ。頼む。やってくれ。」

と語らせていますが、これは実際の中野学校の精神を実によく反映しているのではないでしょうか。


楠木正成と明石元二郎

中野学校の精神的な規範は楠木正成公と明石元二郎大佐であったといわれます。校内には楠木正成「楠公社」が建立されていました。尽忠至誠の精神と遊撃戦(ゲリラ戦)の名手であった楠木正成と、レーニンとロシア民衆を支援し日露戦争を勝利へと導いた諜報戦の立役者である明石元次郎は、なるほど中野学校の精神を体現する手本といえましょう。


中野学校が求めたもの

科学や技術に対する高度な理解、合理的思考など、思考理系の頭脳を持ち、なにか一芸に秀でたスペシャルな技能を持ちつつ、ジェネラリストの思想精神を併せ持つ者同士が、至誠の心をもって分散型ネットワークでコミュニケートする。これこそが中野学校が求めた姿だったのかもしれません。中野学校学校は8年という短い歳月ではあっても、確かに旧日本陸軍の中の異端として存在しました。そしてその精神こそこれからの組織に必要なものであろうと確信します。

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