2009年4月26日日曜日

江戸の養育、江戸の教育 (2008/10/29)


今回のネタ本は『江戸の躾と子育て』(中江克己.祥伝社新書,2007)です。江戸の子育てはどのようなものだったのか、江戸の教育はいかなるものだったのか。この本から見てみましょう。

江戸の育児

胎教の重要性

江戸では子どもは大変大事に扱われました。そしてすでに母親の胎内にいるうちから、善い子に育てるための胎教の重要性が指摘されていたようです。江戸時代初期の陽明学者・中江藤樹は『鑑草』(1647)の中で「胎教というのは、子が胎内にあるうちの教えであり、その教えは母の心持ちと行いにある」ということを言い、自費と正直を根本とし、邪念を起こしてはならない。食物も慎み、居ずまいや行いは正しく。目にいやな色を見ず、耳に邪なる声を聞かない。賢人や君子の行いとか、父母に孝行を尽くし、忠と信を貫くなどの故事を記した書物を読むようにと、勧めていると言います。妊娠中の母親の心持ちが、子どもに影響するという考えですね。母親が穏やかで居住まいを正した生活をすることは、呼吸・心拍・内分泌などの母体の安定をもたらし、胎児にも安定した環境を提供することでしょうから、良さそうな気がします。

乳母の条件

出産後、大役を終えた母親は、七日間寝椅子に座らされ、安静を強いられたといいます。周産期死亡率も妊産婦死亡率も高かった当時ですから、大事に扱われたのでしょう。しかし今日から考えれば、七日間も身動きさせてもらえないほうがよほど大変なことのような気がします。エコノミークラス症候群になりそうです。もっともどの程度こうした処遇を受けていたのかはわかりません。さてそんな具合ですから、新生児は同じ頃に授乳中の女性から母乳を分けてもらうことになります。当時は乳を分けてもらうことや、乳母を雇うことはごく普通のことでした。『養生訓』で有名な貝原益軒は、『和俗童子訓』の中で、善い乳母の条件を以下のように述べているそうです。「心が穏やかで邪なところがなく、慎み深くて、おしゃべりでない者がよい。悪賢くて口がうまく、偽りをいったり、ひがみ根性の者はよくない。また、気が強く、自分の思うままに振る舞うほか、酒を好んで酩酊する者もよくない」と、まぁ酩酊しているような乳母には任せたくはありませんからね。

育児書の旺盛

生まれた子ども対する養育の手引き書も、沢山出版されていたようです。貝原益軒の弟子である医師・香月牛山は『小児必要養育草』(1703)で、「赤ん坊が生まれて六十日後、瞳が定まる。これからは人を見知って話をするように笑う(中国・王隠君の引用)」「赤ん坊が笑い、話するような仕草をするときは、乳人やまわりにいる人がその都度、赤ん坊に話しかけるようにすれば、赤ん坊もよく笑い、その人の真似をして話すような仕草をするものだ。このようにすれば、言葉を話しはじめるのが早いし、人見知りをせず、脳膜炎などの病気になることもない」と述べているといいます。

ところで、赤ちゃんの視機能というのはどの程度なのでしょう。かつては乳児は目が見えないなどといわれていました。しかし近年の乳幼児研究で、新たにいろんなことが分かってきているそうです。それによると、どうやら乳児は生後すぐに見えてはいる。しかし乳児の視機能は、まだ単焦点で、かつ識別間隔が大きく詳細さが荒いため、ある一定の距離にある、形が明瞭でコントラストのはっきりしたものが、大雑把に認識できる程度なのだそうです。その焦点距離はおよそ20~30cm。これは抱きかかえられ、おっぱいを吸っているときの母親の顔の位置ですね(別に母でなくてもいいですが)。目の位置と口の位置と形がおおよそ分かる。逆に言えば、生まれて初めて脳に到達する外界の映像は、余計な情報が背景に紛れ、まさしく母の笑顔であるといえましょう。逆に考えれば、それをまず認識するための合目的的な視機能であるともいえます。人間は  (・_・)  を顔と認識しますが、その根本がここにあります。

そのように視機能が鍛えられ、情報認識が進んできますと、物の形をより識別できるようになり、距離に応じて焦点を合わせられるようになり、周辺視野も広がって、周囲の物に興味を示し、それを目で追うようなります。それがおよそ3ヶ月頃。前述の指摘は概ね正しいといえましょう。この頃に赤ん坊が笑い・話しかけるような仕草をするが、それに応じて笑い・話しかけると、さらに赤ん坊はよく笑い、真似をして話すような仕草をする。これが子どもの言語機能や対人コミュニケーション機能の発達に善いのだ、という指摘ですね。

ところで最近の脳研究でミラーニューロンと呼ばれる神経系の存在が想定されるようになり、大きな興味を持たれているといいます。ミラーニューロンとは、相手の真似っこをする脳細胞ですね。相手が「笑う」のを見ると、と自分の脳の「笑う」という部分が活性化する。というものです。見よう見まね、といいましょうか、コピー機能といいましょうか、相手とシンクロする機能といいましょうか、よく分かりませんが、そんな意味があるのではないでしょうか。

ミラーニューロン(英: Mirror neuron)は霊長類などの動物が自ら行動する時と、その行動と同じ行動を他の同種の個体が行っているのを観察している時の両方で活動電位を発生させる神経細胞である。したがって、他の個体の行動に対して、まるで自身が同じ行動をしているかのように"鏡"のような活動をする。このようなニューロンは、マカクザルで直接観察され、ヒトやいくつかの鳥類においてその存在が信じられている。ヒトにおいては、前運動野と下頭頂葉においてミラーニューロンと一致した脳活動が観測されている。 (出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

ですから、笑顔と笑顔、お話しとお話しを互いに交換することは、牛山の言うように、言語機能や対人コミュニケーション機能の発達にとても大事なことで、牛山の主張を裏付けるものになりそうです。またこれは、別の視点から見れば、見ることと聞くこと、そして表情と話すことを同期させ協調させる練習でもあるのではないでしょうか。それに顔、特に口周辺は、脳の中でもかなり多くの部分を占めると言われます。当然、笑う・話すは脳への刺激となり、脳機能を活性化させ、その発達を促進するのではないかと想像されます。

Homunculus-ja.png

(「ペンフィールドのホムンクルス」Wikipedia より引用)

香月牛山は、赤ん坊が手を動かせるようになったら「拍手(てうち)」と「振頭(かぶり)」を教えよと言っているそうです。江戸の手遊びの代表は「ちょちちょちあわわ」だそうで、これは「ちょちちょち」と言って両手を叩き、つぎに掌で軽く口を叩きながら「あわわ」とやるものだそうです。取引が成立したり、和解が成立したときに「手打ち」をする風習がありますが。「拍手」を教えるは礼を教えるはじめだというわけです。これもまた、脳の中で多くの部分を占める口と手の運動と感覚を伴う遊びですから、脳への刺激となって発達を促す効果があるのではと想像します。

幼児期の養育の重要性

その他にも、幼児期の養育は重要であると思われており、先述の香月牛山は「百尺の松も、一寸のときによく世話をしたから、長いあいだ変わらずに緑を保っているし、七尺の人も一尺のときによく育てたからこそ、長寿を保つ、ということを知るべきだ」と説き、乳幼児期の養育がその人生の健康に大きく関わると協調しています。また牛山は中国の『千金論』から紹介し、子どもの衣類は親の古い着物を作り直して着せる。新しい着物、錦などを用いてはいけない。厚着をさせて暑くしすぎてもいけない。着せ替えるは戸障子を閉め、火を燃やして暖めるべき。衣類を火で炙って温めると暑すぎて皮膚を損なうため、あらかじめ人の膚で暖めて着せるのがよい。と勧奨しています。

子どもは、そもそも体積が少ないので熱容量が小さく、また、体積に比して表面積が大きいため、熱損失が多きいものです。逆に言えば熱が与えれれば熱が上がりやすいと言えます。その上、子どもは体温調節中枢が未熟でもありますから、つまり、冷えやすく、のぼせやすいわけです。衣類や着替えの際の前述の工夫は、体温維持に対する理にかなった配慮といえましょう。また、親が着古した着物を作り直して着せるというのも、新しい衣類より着こなれたもののほうが肌に優しいでしょう。へなへなな木綿って気持ちいいですからね。

溺愛・過保護の戒め

しかし一方では、貝原益軒のように、子どもは薄着をさせ、食事を少なくせよ。さ小児を温めすぎるのはよくない。天気のよいときはときどき外に出して、風と日光に当たらせる。皮膚は丈夫になり、血気が満ちて風や寒さに負けることはなく。病気になることは少ない。と、可愛がりすぎ過保護にすることが子どもをだめにすると、注意を喚起している人もいます。どちらが正しいとかというより、どちらも真理でしょう。子どもの特性に応じた配慮は必要ですが、逞しく育つために鍛えることも必要なのですから。益軒はさらに、「およそ小児を育てるのに、はじめからかわいがりすぎてはいけない」「かわいがりすぎると、かえって子どもをだめにしてしまう」と言い、父母がきびしくすると、子はおそれ慎み、親の教えをよく聞いて背かず、孝の道を行うようになる。父母がやわらかにして厳かではなく、かわいがりすぎると、子は父母をおそれないし、父母も子に教えることができない。子は戒めを守らず、父母を侮るから孝の道がたたない、と厳しく育てることを推奨しています。さらに、父が愛に溺れて、子どもの悪いところを知らなかったり、素行が悪くてもほめたり、技芸が下手でも上手いといってほめるのは愚かなことであり、子どもの善をほめると善をなくし、子どもの芸をほめると芸をなくす、と注意しています。

穏和に育てることの勧め

これに対し、脇坂義堂は『撫育草』の中で、「穏和に育てるのが一番いいと思う。子どもは知に暗いから、親があまりにきびしいと、恐れて親しまず、よいことも悪いことも隠すようになる。ただ怖がるだけで、心から服従しないのだ、なにごとも穏やかにいい聞かせ、よく呑み込んで行動できるように、温和に育て上げるのがよい」「悪いことをしたときに強く折檻するより、よいことをしたときに十分ほめてやればよい。幼な心に喜び、またほめられようと自然によいことを励み、よいことをしようと思う気持ちから、自然によいことが好きになり、ついには善にいたるものだ」「悪いことをしたときだけ折檻すれば、幼な心にも反発し、ただ折檻されることを恐れる。また悪いことをしたときには、これを隠してしられないようにするものだ。悪いことを隠すのは、大悪にいたるもとであり、しまいには嘘つき、悪人になるから、心から納得させず、ただ怖がらせるだけでは子どものためにならない。十分に穏和にいい聞かせ、教え育てるのがよい」と、穏和に育てることを勧めています。こういった「厳しくすべき」「穏やかにすべき」という相反するような立場からの意見は昔から言われてきたことなんですね。

江戸時代は現在に比べて乳幼児の死亡率も高く、捨て子も子殺しも堕胎も多かったのですが、だからこそ親だけではなく皆で子どもを大事にしました。子どもが丈夫に育つよう願い、様々な風習や行事があったようです。今では迷信と思われるようなこともありますが、そこには子どもの成長への願いがあります。それに、それらの風習があるということは育児のマニュアルがあるということです。行事があるということは折々にふれ子どもに関心をはらう機会があるということです。

江戸の教育

寺子屋事情

江戸時代の教育と言えば、寺子屋が思い浮かびます。「寺子屋」という呼称は上方のもので、江戸では「手習所」ということが多かったといいますが、ここでは現在よく知られた呼称である「寺子屋」で通したいと思います。

江戸の寺子屋は私塾で、今のような公的な義務教育機関ではありません。寺子屋の就学年齢はおよそ5~8歳ころで、卒業時期は特に定まっていた分けではなく、13~14歳、あるいは18歳頃まで修学することが多かったといいます。寺子屋1校辺りの生徒数は、10人から100人だったようで、幕末期の江戸の人口はおよそ100万人、寺子屋はおよそ1500校。全国では約15000校あったといわれます。現在の東京都の人口がおよそ1300万人、東京都の小学校数がおよそ1300校であることを考えても、相当に教育熱心であったことが伺えます(もちろん単純な比較はできませんが)。当時の世界を見渡してみても江戸期の日本の教育の広がりは突出しており、1850年頃の就学率は70~86%だったといわれ、これは、同じ時代のヨーロッパ諸国の主要都市での就学率が20%程度かそれ以下だったこととくらべ、かなりの高率でありました。

そのおかげもあって、識字率は、江戸市中で男女とも70~80%、武士階級ではほぼ100%であったと推測されます。これもまた他の国からは想像できないほどの高い識字率であり、幕末に日本を訪れた外国人は、子守の女の子が暇つぶしに本を読む姿を見て驚嘆したといいます。

寺子屋の師匠

寺子屋の師匠には、僧侶・神官・御家人・諸藩士・医師・書家・商家の隠居・豪農の知識人などが多く、本業の他に寺子屋で教えを説いていました。当時、「教える」という行為は、お金に換えることができないほどの神聖なものと考えられていたため、師匠が報酬を要求するということはなかったといいます。中には月謝を取る専業の師匠もいましたが、それでも「お金のために教えているのではない」というプライドがあり、払わなければ教えないというようなことはなかったそうです。とはいうものの、親たちは「お礼」をするのは常でした。しかしこれに対しても師匠は習字の発表会を開いて、赤飯や菓子を振る舞うことで還元していたようです。師匠になるのに資格があるわけではないので、誰でもなることはできましたが、それ相応の実力がないと、評判が悪く、弟子がつかないためやっていけませんでした。知識が豊富で、教え方が上手く、人柄がよい師匠が人気があったというのは、世の常のようです。たいがい一人の師匠について学びましたから、師匠yは一生の恩師として「お師匠様」と敬愛されました。

多種多様な「往来物」

寺子屋では「読み」「書き」「算盤」を習いました。寺子屋の勉強は実用的な知識が多く、それを身につければ、さしあたり世間に出て仕事をするのも、暮らしてゆくのも困ることがありませんでした。最初に覚えるのは「いろは」です。ものごとの「いろは」を習うというわけですね。使う教材は「往来物」と喚ばれる教科書が多かったようです。往来物とは、往復書簡の形をとった手紙文の手本のことで、これで漢字や熟語、敬語の挨拶や時候の挨拶など、言葉遣いや礼儀、生活に必要な知識を学ぶのでした。最古の往来物は平安後期、藤原明衡が書いた『明衡往来』であるとされます。「往来物」の種類は数多く、実に七千種類もあったといいます。そのうち千種類は女子用であったというのですから。女子の教育も熱心であったといえましょう。

往来物の代表は『庭訓往来』という教科書で、一月から十二月までの手紙の往復の規範文を集めたものです。子どもはそれを通して、敬語や時候の挨拶を学びました。『庭訓往来』は各地方で出版され、地方ごとの特色が盛り込まれていたようです。『絵本庭訓往来』は、公家の新年の挨拶にはじまり、衣食住、職業、風俗習慣、動植物などを北斎の挿絵付きで学ぶことができました。他にも、年中行事を扱った『風月往来』などもありました。

当時、武家の子は武士、商家の子は商人となるのが当たり前でしたから、それぞれの職業に密接に結びついた教科書もありました。その代表としては『商売往来』があります。これは商取引用語、数字、貨幣単位、商品名、商人心得などが記載されており、商人の多い地域で採用されていたようです。その中の商人の心得について述べたところでは、商人にとって重要な心得は「始末」「柔和」「正直」であるとされ。始末とは、浪費せず、つつましく暮らすこと。柔和とは、挨拶や応対に誠意を尽くし、顧客の心をつかむこと。正直とは、裏表のないこと、と教えています。今のご時世、誠に耳が痛いのではないでしょうか。『商売往来』は社会常識についてよくできた教科書だったため、たんに商人向けというより、一般の教科書として用いられたようです。同じようなもので『問屋往来』、さまざまな職業、特に職人に必要な知識、技術、心得などをまとめた『諸職往来』、大工・左官など職人言葉や文字を集めた『番匠往来』、職人の道具や度量衡を測る道具と、その使い方をまとめた『万福百工往来』などがありました。農村では『田舎往来』『農業往来』『百姓往来』などが使われ、農地、農具、耕作、栽培、農民としての心得などを学び、とくに村役人ともなれば触書の伝達、年貢計算、納入書類作成などのため「読み、書き、算盤」は必須でした。漁村は漁村で『船方往来』『浜辺小児教種』で船乗りに必要な知識を学び、船大工用の教科書もあったといいます。

また、地名・地理を学ぶ教科書としては、諸国の国名を列挙した『国尽』。江戸市中の地理については『御江戸名所方角書』『江戸往来』、京都の地理地名なら『都名所往来』、大阪の地理地名は『浪速往来』というように、各地ごとに出版され覚えやすく工夫されています。算術については『塵却記』が有名で、上巻では、算盤を使った加減乗除の四則演算。中間は生活に即した応用問題。下巻は平方根や立方根の求め方などが扱われていました。算盤が普及したのは江戸後期ですが、これは消費経済が発達したことによるものと思われます。また、異色なところでは『身体往来』があり、五体の名称と機能、五臓六腑についても記してあります。その他、儒学なら『四書五経』『六諭衍義』、人名なら『名頭』『苗字尽』、文字は『千字文』、歴史なら『国史略』『十八史略』などが教科書として用いられ、源平合戦、大阪の陣、島原の乱なども題材となった。古典文学として『唐詩選』『百人一首』『徒然草』なども学んだようです。教育内容は、反幕教育をしないかぎり基本的に自由だったようです。

寺子屋では、いたずらもさかんで、子どもたちはいろんないたずらをしては叱られていたようです。師匠によって罰が与えられるのは、行いが悪く他人に妨害を加える場合、怠惰で勉強が遅れている場合、喧嘩や言い争う場合、他人をだましたり物を盗んだりした場合などでありました。どんな罰が与えられたかというと、叱責(しかる)、説諭(いいきかせる)、留置(居残り)、謹慎(師匠の傍らで正座)、食止(飯ぬき)、線香(線香と水を入れた茶碗を持って立たせる)、鞭撻(竹刀で手足を打つ)といったもので、便所掃除の罰もあったようです。面白いのは片手に火の点いた線香、片手に水の入った茶碗を持たせて立たせる、あるいは正座させるというものです。火の点いた線香が短くなってくるのは緊張しますし、水が入った茶碗を持っているので、身動きもできません。あまりにひどい場合は「破門」ということもあったようですが、よほどのことでなければ破門になることはなかったそうです。面白いのは「あやまり役」を順番で決め、師匠に叱られる時には一緒に謝るのだそうで、師匠のほうもあやまり役に免じて許してやろうと、納めどころ作りやすかったといいます。


コミュニケーション能力と生存能力を付与する

江戸時代は、武家の子は武士、農民の子は農民、職人の子は職人、商人の子は商人になるのですから、将来の目標は明確であり、そのために身につけるべき目標もまた明確でありました。したがって、自分の能力に応じて自分なりに努力し、時間を掛けながらでも目標を達成すればよかったのです。そのため、寺子屋でも同じものを一斉に勉強するのではなく、銘銘が銘銘の進み具合で学習し、その一人一人に応じて師匠が指導していました。エデキュケーション・オン・デマンドというわけです。

また、往復書簡集である往来物を使った教育や、それぞれの職業や市井の風俗を題材とした教育というのは、とても意味深いものだと思います。コミュニケーションの作法を学びながら読み書きを習得し、しかも実学も同時に身につくといういうわけですから。当時の人が、対人コミュニケーションのスキルと、社会の中で身を立てるためのスキルを体得することを、いかに重視していたかということが伺えます。

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