2009年4月26日日曜日

【空気支配】人材兵站線への間接アプローチ (2008/10/27)


場の空気に目的を忘れる

集団には集団の雰囲気があります。会議が始まるまでは「この目的を確認して、ここの同意を取り付ける」などと目的を持って挑んでも、「場の雰囲気に流されて」本題までたどり着けなかった、などということが生じることは、みなさんご経験があるのではないでしょうか。特に日本の社会では、「空気」とも呼ばれるこの「場の雰囲気」は実に大きな位置を占めるように思われます。個人個人ではそれぞれに意志を持って望んでいるのに、集団でいるとその場の雰囲気に同調してしまうのは、その場における共鳴が発生して協調しようとする力がそれぞれに起こるためでしょう。例えば、初対面で、しかも今後の関係をよくしたいと思っているもの同士が会議をした場合、和やかに会を進行したいと願います。その場の雰囲気をよくすることは議事を円滑に進める手段なのなのです。ところが往々にしてそれが目的に取って代わり、良い関係を構築すること自体にが目的であるかのような集団錯覚に陥ることがままあります。多大な労力をみんなが注ぎ込み、なかなか主題が進行しないと感じていても、場の雰囲気に合わせるのに流されがちになります。その場は異常に盛り上がりますが、会議の後は結果が残らないので徒労感が残ります。

この例では、場の雰囲気を良くすることがその場での共通のテーマになってしまっている時に、本題を進めるための突破口を開く決断が必要だったわけです。本来、場の雰囲気を読んで、それに応じた適切な対処をすることは、ある意味高度な機能です。後述しますが前頭前野の機能と言えます。しかし、本来の目的を果たすべく、その雰囲気に突破口を開く決意もまた前頭前野の機能なのです。その時の本来の目的に沿って、場の雰囲気の要請に打ち克つことは、場の雰囲気に合わせることよりも、より高尚な行為といえましょう。しかし、それはなかなか難しいものでもあります。場の雰囲気、「空気」の掟に敏感な日本人ならなおさらです。

「空気読めない」

「空気読め」という言葉はネット上でよく目にします。この「空気」については、山本七平氏の『「空気」の研究』という著書があります。「空気を読む」は人間関係上のコミュニケーションにおいて重要な要素であり、前頭機能でもあります。しかし、「空気読めない」ことが恥ずかしいこと、けしからんことと認識され、嘲りの対象となると、、途端に様相は違ってまいります。「空気読め」がスローガン化すると、ここの状況に応じた多様性を「場に合わせることはよいこと」「場に合わせないのは悪いこと」といった二元論的に落とし込み、場の雰囲気に合わせることが暗黙の「掟」となります。するとこれは、集団において、付和雷同することや日和見すること、雰囲気に迎合することを増長させることになりかねないおそれが生じます。つまり雰囲気による支配を強化することになるということです。これって、いろんな集団の中に起こっていませんか。場の雰囲気の合わせるということが、主体的な行動としての「場への調和」ではなく、"脊髄反射"的な「迎合」となれば、それは衆愚です。「KY(空気読めない)」をキャンペーンしたのは大手新聞社だったと記憶していますが、これは知ってか知らずか国民の衆愚化を促進する一石となる恐れがあるのではないかと危惧します。皆が雰囲気という支配者の下に従い、主体的の考え主体的に行動することを抑制するような作用があるのではないか、という懸念です。

だからといって、「場の空気など気にするな」ということが全面的に適切だということを言いたいわけではありません。これもまた、人の行動を二元論的な迷宮に落とし込むことになります。要は、場の雰囲気に調和し、場の雰囲気を良いものにする工夫と、必要なことを主張し、場が合目的的に最適化するような工夫との、適切な制御が大事なのです。そしてまたこれが、真に前頭前野機能であるといえます。「神仏を敬い、神仏を頼らず」という言葉がありますが、それになぞらえるなら「空気を読み、空気に流されず」というようにありたいものです。

双曲割引

さて、場が盛り上がり良い雰囲気になっている。しかし本題から外れ、本来の目的を達成するにはベクトルがズレてしまっている。この空気を破り主題に誘導する一声をあげようかとも思うが、なかなかその勇気が出ず、ついつい場の雰囲気に流されてしまう。この場合の、気にはなるが踏み切れなくて先送りする心理は、双曲割引の心理に相当します。双曲割引といのは、将来予想される価値を、現時点において評価する際、どの程度に評価するかという理論です。それによりますと、人は先の利益より目の前の利益のほうを大きく勘定し、先の不利益より目の前の不利益を過大に評価する傾向があるといいます。先の利益より、今の欲望。先の後悔より、今の回避。人はえてして短絡になりやすいと言えます。先般の例で言えば、本来の目的を果たせず後悔することよりも、目の前の雰囲気を壊すことの緊張が過大に評価され、行動に躊躇が生じたと言えましょう。試験の前の日に部屋を片付け始めるとか、後の損害のほうが深刻なのに、それよりも目先の緊張回避・現実逃避が過大評価されて優先されてしまう心理です。

前頭前野と大脳辺縁系

前頭前皮質は脳にある前頭葉の前側の領域で、一次運動野と前運動野の前に存在する。

(中略)

この脳領域は複雑な認知行動の計画、人格の発現、適切な社会的行動の調節に関わっているとされている。この脳領域の基本的な活動は、自身の内的ゴールに従って、考えや行動を編成することにあると考えられる。

(中略)

前頭前皮質には、より報酬を得ることのできる長期的に満足のいく結果を得るために短期的な満足感を先送りにするという選択肢を制御する能力を持っている。この報酬を待つ能力は、ヒトの脳の持つ最適な実行機能を定義する重要な要素の1つである。
(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

PQとは、Potentiality Quotientの頭文字をとったもので、潜在能力指数という意味である。2005年にはHQ(Humanity/Hyper-Quotient )に改称された。
前頭前野がもたらすヒトをヒトたらしめる意識や知性、知能、感情制御、社会性をもたらす機能の総称である。
PQの発達は8才がピークで子供のPQを高める方法には、読書(音読)、計算、会話、豊かな人間関係、遊び等が指摘されている。
また、跳ね返すことが出来る程度の適度のストレス、躾けや武道の鍛錬なども脳内ホルモンのドーパミンが分泌して、前頭連合野の働きを活性化させる。
(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

脳にはさまざまな部分があります。そのうち、前頭前野と呼ばれる部分の機能は、広く状況を認識し、未来を予測し、それに応じた最適な対処行動を想定し、かつ、規律や慎み、忍耐をもって行動を適切に制御するものです。一方、大脳辺縁系と呼ばれる部分は、情動、意欲などの源泉であり、生物としての根源的欲動を司るところです。例えていうならば、辺縁系がエンジンのような動力系で、前頭前野はスロットル/ブレーキといった制御系であるといえましょう。再び先ほどの例を持ち出しますと、雰囲気を読んで協調すること自体は前頭前野の機能です。しかし緊張を回避しようとするのは辺縁系の要請です。そこでさらに、本来の目的を遂行すべく、緊張回避の誘惑に打ち克って、その場を本来の目的に沿うものに引き戻すことは、優れて前頭前野の機能と言えます。

車の運転も、初心者はアクセルやブレーキがぎこちなくギクシャクしていますが、優れて上達すれば、スロットルの微調整だけでストレスなくスムースに運行できようになります。脳もまた訓練によって前頭前野の機能が発達しますと行動の発動と抑制の適切な制御ができるようになり、状況に応じて、あるいは未来を予見してスマートに行動できるようになりまます。行動や振る舞いの勇敢さ、優雅さ、辛抱強さに関係するということもできましょう。ただし、前頭前野は脳の進化という点から言えば最も新しい部分なので、放っておいても本能的に機能が保たれるわけではなく、優れて機能させるには鍛えなければなりません。

前頭前野機能不全人格

では、この前頭前野の機能が損なわれるとどういうことが起こるのでしょうか。適切な制御という前頭前野の機能が損なわれるわけですから、大脳辺縁系の働きが制御を受けずに発動されやすくなります。具体的には、情動の抑制が欠如し、喜怒哀楽や欲望が適切な抑制を受けずに、なまのまま発現しやすくなります。嬉しければ場を考えずにはしゃぐ、怒れば癇癪を起こす、哀しければ泣きわめく、楽しければ上得意といった塩梅ですね。また、欲望の制御や適切さの工夫が弱いので、短絡的な欲求充足、即時満足の希求があからさまになります。身勝手で我が儘で、待てない我慢ができないという状態ですね。さらに、未来を展望し計画性をもって地道に忍耐強く積み上げるという機能も至りませんから、根気が無く飽きっぽくて、短絡的、刹那的、場当たり的な行動になりやすくなりますし、能動的、積極的な問題解決指向も失われますから、「善きに計らえ」的な受動的な姿勢になります。その上、不安や緊張、フラストレーションに対する耐性も低いものですから、我慢や辛抱が効かず、混乱したり興奮したりパニックを起こしやすくなります。他人の心理を読み取り、場の雰囲気の意味を理解し、その中で適切な協調を調和を図ることも苦手となりますから、空気が読めず、人の気持ちの分からない、無責任で身勝手な行動になりやすいでしょう。しかもそれによって立場を悪くしても、なぜそうなったのか察しが悪いので、周りのせいであると解釈して、邪険にされた、いじめられたと逆ギレすることもでてきます。実に始末の悪い具合です。

教育は人材の兵站

前頭前野の機能は脳挫傷などの外傷や、脳出血・脳梗塞、あるいは脳腫瘍などの病気で損なわれ、前述のような傾向を伴う人格変化を来すことがあります。しかし一方では、生来的、妊娠中、あるいは幼少時からの生育上の様々な要素による影響が想定されますし、教育による機能の獲得と生活習慣による機能の維持もまた重要な要素であると思われます。ことに教育の果たす役割は、前頭前野の機能を鍛える上で、たいへん重要なものであることでしょう。この場合の教育とは、生活全般を通して経験する、社会的教育を含む広義の教育であります。

社会機能から見れば、このような前頭前野の機能が善く発達した(鍛錬された)人材が多い方が望ましいと言えます。逆に、前頭前野の機能の不十分な人間が多ければ、道徳観や公序良俗が乏しく、社会機能が滞り、トラブルが多く、不正や腐敗がはびこり、治安や風紀も乱れます。ですから、前頭前野の機能を優れたものに高める教育の土壌は、個人の成長のみならず社会機能の維持の上でも極めて重要なことであり、前頭前野の機能の優れた人物を社会に供給し続けることが教育の目的の一つでもあります。

人材の兵站線への間接アプローチ

ではここで悪意を持った考えをしてみましょう。敵対する国、あるいは脅威となりうる警戒すべき国があるとしましょう。その国と正面からケンカしてやっつけてしまおうという方法が直接アプローチだとすると、間接アプローチとは「正面衝突を避け、間接的に相手を無力化・減衰させる戦略(wikipediaより抜粋)」であります。敵の城を包囲して兵糧攻めにするとか、相手の国に麻薬を蔓延させて社会を荒廃させるとか、対人地雷をばらまいて社会保障負担を増加させるとか、石油などの資源輸送商船を攻撃して補給線を破壊するとか、反体制勢力を支援し社会不安を増大させるとか、いろいろあります。いずれにせよ意図するところは、相手の食糧、エネルギー、人的資源の兵站を枯渇させることを目的としているものです。

間接アプローチは直接アプローチよりも有効です。敵対関係である相手と正面から衝突する場合も非常に有効な戦略ですが、相手と敵対関係でない場合でも応用が利きます。例えば、相手が軍事的には同盟国だけど、経済的には脅威となる競合国であるという場合、あからさまに攻撃性を向けるわけにはいきません。できるだけ穏やかに衰退していただきたいという場合にも間接アプローチはその力を発揮します。つまり交戦状態にない場合も目に見えない形で攻撃できる戦略であるわけです。相手国の国内食糧生産を壊滅させ自国からの食糧供給に依存させるとか、相手国のエネルギー資源の購入先を独占するとか、為替相場など経済のルールを変更して相手国の金融や産業に打撃を与えるとか。そして、相手国のメディアを支配したり、教育を破壊したりして、優れた人材の供給を阻害することもまた、人材の兵站線への間接アプローチであるといえます。

脳に対する環境汚染

話しは前後しますが、前頭前野機能の発達を阻害する要因とはなんでしょうか。脳はデリケートな臓器です。その中でも前頭前野は傷害されやすい部分だということを聞きます。酒を飲んだ時にまず麻痺し始めるのがこの部分であることは、多くのみなさんが身に覚えのあることでしょう。あるいは火事に巻き込まれ一酸化炭素中毒になった時も前頭前野はやられやすいといいます。つまり、外的要因によって傷害されやすいという点と、教育によって機能を獲得してゆくものであるという点の、2つの側面から前頭前野機能の発達は阻害されやすいと言えます。具体的にはどのような要素が関与し得ると想像されますでしょうか。これからあげますことは、一つ一つが実証されたものではありません。関与する可能性を羅列したものですので、ご注意願います。

まず、生来的な面で言えば、遺伝的要素が関与するかもしれません。今日的には排卵誘発剤の使用や人工授精といった医療についても正しく評価されるべきでしょう。また、妊娠中お母さんのお腹にいる間に母胎を通して受ける影響も関与するでしょう。出産時の影響、赤ちゃんの時の哺乳、栄養、養育、関わり方などについては。長期的な研究が難しいでしょうが、大きな影響があるのではないかと想像されます。子供を取り巻く物理環境も関与するかもしれません。放射能、電磁波、寒暑乾湿、冷暖房、照明など昼夜明暗のリズムなど。現代生活は多種大量の化学物質に囲まれていますから、化学的環境の影響は無視できないでしょう。大気汚染や大気中・室内空気の化学物質の影響、保存料・防腐剤・調味料など食品添加物や、野菜・穀物などの残留農薬など径口的に摂取するものの影響は重要です。また、洗剤、除菌剤、芳香剤、あるいは建築用溶剤接着剤塗料といった、吸入や肌への接触と言った形で曝露するものもあります。

教育に対する環境破壊

前頭前野など脳の発達は(広義の)教育によって促進されるものですから、生活環境や社会構造の変化は前頭前野機能の発達に影響を与えるだろうことは十分推測されることです。一日24時間の中で経験したことで、脳の情報処理様式は構築するわけですので、生活リズム、生活スタイル、食生活、礼儀作法、規律といった生活様式の影響は非常に重要であります。核家族化、共働き、子供の孤立といった養育環境の変化も影響するでしょう。同世代の子供たちとの遊ぶ機会、特に集団で行う身体機能を伴うような遊び、それに遊び場や遊びの時間。あるいは社会の風潮や社会的価値観の変化といった社会環境の影響のあるでしょう。

学校にあっては教育の内容、教師の質といった直接的な教育の影響ももちろん重大なものです。これは単に知識がどうだとか、成績がどうだとかというものではなく、学校教育が前頭前野機能など脳機能の発達に及ぼす影響という意味です。ですから教室の構造や掲示物の様子、先生の服装や口調・態度・立ち居振る舞い、どのような状況でどのような対応をしたかなど、広汎な要素を含みます。子供は教えられたことだけ学ぶのではなく、経験したことから学ぶのですから。こうした子供を(子供だけではありませんが)取り巻く社会環境、学校環境、家庭環境は、前頭前野機能を健全に育み、鍛えるに十分なものであり続けているでしょうか。

「ゲーム脳」は"トンデモ"なのか

感覚器官を通した影響も予想されます。目から見る情報の質や量、耳に聞く情報の質や量、嗅覚、味覚、皮膚感覚など、感覚器を通した情報は脳にもたらされ、脳の情報処理を誘導するわけですから。特に現代ではテレビ、ゲーム、ネット、ケータイといった情報機器を通して曝露される情報の量は莫大なものです。その量は、情報の質とともに十分吟味されるべき要素だと思います。昔から「テレビを見るとバカになる」と言われました。その都度、「テレビを見てもバカにならない人もいる」とか「証拠はあるのか」とか「テレビは勉強になるところも多い」「結局は個人個人が見過ぎないように気をつけるべき」とかという反論が出て、結局は水掛け論のようになって有耶無耶になってしまいます。最近では「ゲーム脳」という言葉がセンセーショナルに報じられ、それに対してこれまた反論が出され、「最新の脳科学を誤解している」「『ゲーム脳』はトンデモ本だ」と言われます。ここで特徴的なのは、仮に悪影響があったとして、その悪影響を供給している人達と、その悪影響を享受している人達が一緒になって反対するという構造です。いわば加害者と被害者が共犯関係を作ってしまうといえる点でしょう。

多層複合的攻撃

以上、羅列しましたような要素、あるいはそれ以外の要素を一つ一つ抽出して分析しても、おそらくそれで何か分かるものではないでしょう。ゲームを例に取れば、ゲームのプレイ時間だけではなく、ゲームのスタイルや、舞台設定、時代設定、内容、画像のめまぐるしさ、キャラクターの質、視覚的な衝撃、情緒的な衝撃、興奮の質と量、報酬が得られる条件、達成の目的などなど、様々な要件がからんでいますから、これらを評価することは大変です。結局は影響があるとかないとか、水掛け論になって有耶無耶になるでしょう。そうする間も、事態は継続することになります。個人的には、それがテレビであれゲームであれ、またスリルであれ笑いであれ(残酷なものならなおさら)、慢性的持続的反復的に脳に対して過剰な興奮を強いることは、脳に対する破壊的な負荷であるだろうと思います。また別の面では、一日が24時間であることは拡大しないのだから、他の体験から様々なことを学ぶ機会を奪うことになるだろうとも思います。

そもそもこれほどの多因子的かつ複合的問題を要素に分けて分析してみたところで全体が分かるものでもありません。化学物質などの曝露、社会共同体機能の破壊、メディアを使った脳への影響など、一つ一つは有意な違いはなくとも、複合されれば全体への影響は無視できないものになることだって十分あり得ます。単純な例えで言えば、お菓子や乳製品一つ一つへのメラミン混入量が微量でも、複数の経路から摂取すれば、その人の体内において健康被害を引き起こしかねないというのに似ています。もしもこれが人材兵站線への間接アプローチであれば、実に巧妙なものであると言えます。別に証拠があるわけではありませんので、仮定の話ですが。まあ兎に角、よその国が国民の質が低下し、智恵のある者、勇敢な者、忍耐強い者、協調性のある者が少なくなり、見通しの暗い者、欲深い者、身勝手な者、癇癪を起こしやすい者、我慢の効かない者、雰囲気に流されやすい者が増えてくれるのは好都合だと考えるところもあるでしょう。

教育と学習

仮に(なんて言ってますが、私はアメリカの占領政策だと思っていますが)、こうした人材兵站線への間接アプローチがあったとしましょう。では、どうしたらいいのか。「それはけしからん。謝罪と賠償を!」と言ったところで受けたダメージが元にもどるわけではありません。「責任とって俺たちを立派な人間にしろ!」と言ってもそれはちょっとできない相談です。我が身にどんな不幸が降りかかろうと、それがどんな理不尽なことであろうと、それを乗り越えるのは自分自身にしかできません。「○○のせい」と言っている間は(例えそれがその通りであっても)先には進めません。自分自身の人生を歩んでいくことは自分自身にしかできないのです。

教育は対象に施すものであり、教育される者はそれを受ける立場です。教育する環境が破壊されてしまえば教育を受ける者はひどく不利を被ります。しかし学習は違います。学習する者は、それを主体的に行いますし、学ぶ対象は人であり、本であり、歴史であり、自然であり、それこそ無限にあります。自ら学ぼうとする意志があり、習おうとする意欲があれば、自分で自分を教育することができます。そのように取り組めば、与えられるだけでは見えなかったものが見え、出会えなかったような人とも出会えることでしょう。「天は自ら助くる者を助く」と言います。「叩けよさらば開かれん」とも言います。自ら行動して学びましょう。そしてそれを日々実践しましょう。量はいつか質へとかわり、見事な人間になります。そして後世のために、失われようとしている教育の環境をあらたに作り上げましょう。

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