2009年4月26日日曜日

未来に何を繋ぐか (2008/10/20)

サー・ウィンストン・レナード・スペンサー=チャーチル英国元首相曰く、
「お金を失うことは小さく失うことだ。名誉を失うことは大きく失うことだ。しかし、勇気を失うことは全てを失うことだ」
by Sir Winston Leonard Spencer-Churchil http://renzan.org/akitsuki/ssss.html
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世界征服後の世界

特撮ものやアニメ・漫画などのフィクションの世界では、世界征服を目論む悪の組織がしばしば登場します。ショッカーでも死ね死ね団でもいいのですが(あっ、死ね死ね団の結団の理念は日本人抹殺であって世界征服ではないか)、例えばショッカーが世界征服を成し遂げたとしましょう。そうしますと、全世界がショッカーの支配下になるわけです。すると今度は征服から経営に目的が変わります。世界政府ですね。(別に世界経営は放棄して、世界を悪に染めるでもいいのですが、生産性が落ちて永続性はありません。それに征服だけして放置というのもねぇ)

首領による徹底した独裁ですので、中央集権絶対君主制です。ショッカーはかなり規律が厳しそうですから、風紀や治安の良い、厳格な社会になるかもしれません。おそらく全世界(この場合"全世界"という概念がなくなります。全部ショッカーなのですから)の法律、度量衡、貨幣、言語、生活様式を統一するでしょう。ここで注意すべきは、世界征服を成し遂げてしまったので「敵対する勢力というものがない」ということです。もっといえば、全部ショッカーなのですから「外国」というものがないのです。あるいは「異文化」というものがない世の中になります。外の世界がないって、これ実はすごいことですよ。全部、内輪のことですから。すべて内政です。

外敵の無い世界は全部内政問題

というわけで軍隊がなくなります。外国がないのですから。すべて警察公安ですね。当然、市民は武装解除です。銃の所有も認めません。非公式の集会は禁止。通信も傍受。ネットも検閲。「サーバーを外国に置いて」なんてこともできません。外国がないのですから。個人識別コードもお手のものでしょう。個人の行動はすべてデータに残り認証されなければ何一つ買えないわけです。不穏分子を鎮圧する程度の武力があればいいので、核兵器のような大袈裟なものは必要ありません。監視が行き届いていればいいのですから。

人材も戦闘能力より統治能力や行政能力が重視されるでしょう。戦闘員も戦闘がないのですから失業です。一旦解任されて、地方の官吏となって再雇用です。それだけ巨大な監視社会を維持するには、それだけ大きなコストが必要ですから、それだけ大きな生産が必要になります。それだけ大きな生産が必要だとなると、市民を酷使して疲弊させてもいけません。福利厚生も考えなくては。片っ端から殺していたのでは生産が落ちます。教育はすべてショッカーの教義に準じたものです。ショッカー以外の思想はありません。歴史ももちろんショッカー史観。仮面ライダーは恩を仇で返す裏切り者で、沢山の幹部を殺した大悪人。娯楽もまたショッカーを否定するものはなし。お笑いもショッカーをネタにするものは御法度。世界中が同じテレビ番組を見るのです。

統一世界では歴史が止まる

そこに出現するのは、ショッカーというモノトーンな世界。ショッカーという単相社会。ショッカー・モノカルチャーです。圧倒的に巨大なパワーが厳然とあり、それ以外の世界が存在しない広大な世界です。完全なショッカー体制以外ないという世界。こういう世界が出来上がったら、どんな社会になるでしょう。この状況においては、支配体制があまりに巨大すぎて、世界を変えるとか未来を作るとかという志が不毛なものになります。変わりうる未来というものを考えるだけ無駄という世界ですね。

未来は変わらない。歴史は変わらない。となれば、それは歴史が止まったと同じ事です。未来はないということと同じ事です。永遠の平和。延々と続く現在。延々と繰り返される日常。努力したところで首領になれるわけではなし。大幹部も世襲になってますから、せいぜいよくて戦闘員クラス(もはや戦闘もないから公務員ですね)。未来に繋ぐ、将来に託するという長期的な希望がなくなり、今が良ければ、今日が楽しければという刹那的な欲望が主になります。過去も未来も現世利益に奉仕するといえましょう。

腐敗する永遠の現在

中央集権型支配の単相な社会ですので、地域や共同体の意味も薄れます。いずれ個人主義が蔓延するでしょう。社会のため、子孫のためという理想は失われ、自分のため、自分の家族のためという個人的な願望が多くを占め、利己主義が跋扈します。最初は世界征服の達成感に熱狂し、支配者となった興奮に酔っていた怪人や元戦闘員も、次第に平凡な日常の業務に追われ、予算編成の書類を作成するのに徹夜したり、市民の苦情を処理したりします。世界政府新生という事業への理想も薄れ、目標が卑近なものになり、腐敗した官僚主義になっていきます。同期の出世を妬むアリクイ男、賄賂を求めるフクロモモンガ男、新人イジメを趣味にするキツツキ女など。生産性は低下し、欲望と保身、嫉妬と讒言、欺瞞と腐敗がはびこる世の中。というように、刹那的・利己的な欲望に支配された社会が延々と続く世の中になるのではないでしょうか。

ショッカーの世界征服を題材にしましたが、もしも正義の組織が悪を平らげて世界平和を達成したらどうでしょう。皮肉なことに、成立過程での悪とか正義とかとは関係なく、統一された中心型の単相社会であれば、やはり同じような経過をとる危険性が大きいといえます。長沼伸一郎氏は、短期的願望が肥大化した状態で社会システムが均衡して動かなくなった状態を「コラプサー」といい、文明の危機と位置づけています。コラプサーとは「崩壊」とか「虚脱」とかいうものですが、氏は「文明のブラックホール」になぞらえ、「無形化した環境においては一旦コラプサーに縮退してしまえばそこからの回復は二度と期待できないという、重大な結末が予想されることになるのであり、それを考えるならば、文明の将来に立ち塞がる問題としてその阻止は何よりも優先する地位を得るのではあるまいか」と警鐘しています。

支那帝国にみる統一世界

長沼氏が指摘するところでありますが、実は、世界征服後の統一世界のモデルを支那に見ることができます。ここでは最初の帝国「秦」に起源を発する「支那」という言葉をあえて使用します。というのは東方世界を最初に統一した秦がその後の世界を決定づけたといえ、その後の帝国は秦をリフォームした疑似秦帝国といえるからです。ところで、三国志演義とか、漢文漢詩とか、諸子百家とか、あるいは書画陶磁など、日本は支那文化が好きですね。でも、支那好きの日本人の多くが親密さを感じるのは、秦以前の春秋戦国時代や、または三国時代という、分裂し覇を争っていた時代ではないかと思います。それに比べると、帝国時代の支那にはあまりシンパシーを感じないのではないでしょうか。

さて、秦は法律、度量衡、貨幣を統一し、いわゆる焚書坑儒を行って思想・文化をも統一しようとしました。前述のような広大は単相世界を作ったといえましょう。支那ではその後も統一帝国が興りますが、その巨大な単相社会では次第に腐敗が拡大し、不公正に民衆が反乱を起こし、弱体化したところで異民族に支配される。その異民族は支那にはいると秦帝国をひな形として統一世界を造り、支那の毒に染まるが如くやがて同じように腐敗してゆく。こうして中央集権型の巨大統一世界がのれんを変えて続いていきます。支那には沢山の民族がいてそれぞれの農村文化をもって暮らしていましたが、支那文明としての都市は帝国が代替わりしても同じような単調さをもって停滞していきます。

金融資本と支那帝国

支那文明は都市であり、都市は脳化社会であると看破したのは養老孟司氏です。氏は自然から離れ、脳の思うままの世界、意識のままに制御できる世界を作ろうとする動きを脳化といいました。我が意の儘、これを「わがまま」といいます。氏はまた、最も都市化した民族の代表としてユダヤ人を挙げています。それしか許されなかったという事情はあるにせよ、金融というのは最も都市化した仕事でしょう。なにせ相手にするのは自然でもなければ物でもなく、通貨価値という概念であり、それで世界を支配するのですから。ちなみに、脳がいくら思うがままを願おうが、自然(現実といってもいい)はそれとは無関係に在ります。ですから、思うことが叶うことは、偶然です。努力や工夫でその確率は高くなるでしょう。しかし意のままではありません。本質的に、思うことが叶うのは「有り難い」ことなのです。

私は漠然と現代アメリカ資本主義文明と支那帝国文明はよく似ていると感じていました。何というか、欲望原理主義みたいなところです。欲望を追求するのに葛藤がないといいますか。秦帝国の統一からおよそ2000年を経て建国されたアメリカを依り代(よりしろ)とよる金融資本帝国は、全世界を金融グローバリズムで征服しようとしているように見えます。日本もまたその単相な欲望原理主義の世界の支配下に置かれています。そして金融資本帝国は統一世界として2000年以上の歴史をもつ支那帝国と統合を図ろうとしているように見えます。この欲望原理主義の金融帝国が世界統一を完成させたら、巨大な帝国の地平が広がり、歴史は止まり、未来は無くなるのでしょうか。刹那的な享楽と利己的な欲望だけがだらだらと続く世界になるのでしょうか。

壊死する世界帝国

ところが現在その金融帝国が大きくぐらついています。その破綻が顕性化したというべきでしょうか。帝国の基盤が崩壊しているので、帝国が支配する帝国領はすべて崩壊するでしょう。もちろん最大の債権国である日本の支配体制も崩壊します。ここにあって、金融資本主義帝国から国家資本主義帝国への覇権の委譲が画策されているようです。G20による金融の国家管理というヤツですね。貨幣を媒体とし欲望を動力とする支配が叶わなくなったので、権力を媒体とし恐怖を動力とする支配に切り替えようとするものです。欲望を煽って吸い上げていたけど、今度は直接吸い上げますということでしょう。欲望原理主義から管理社会主義へといいましょうか。オーナーは同じです。

いずれにせよ、世界帝国が否応なく直面する問題があります。それは石油枯渇、水の枯渇。そしてそれらに起因する食糧問題です。金融経済の崩壊として現れてはいますが、そもそもその原因をたどれば石油の枯渇に行き着きます。現在の人口と文明を支えるエネルギー供給が下降曲線に入ったことに由来しているのです。巨大な帝国に供給される兵站が枯渇すれば、いくら権勢を振るう帝国といえど自壊します。ちょうど飛蝗、水害、旱魃などによって恐ろしいほどの飢餓が発生した支那帝国を想像していただければよいでしょう。潤沢なエネルギー供給の下で膨張した世界帝国はエネルギー供給が途絶することで壊死します。飢餓、反乱、分裂、戦争(核戦争含む)。そのような状況の中で私たちはどのような未来を描けばいいのでしょうか。

後世への最大遺物

統一世界の本質的な問題は、それによって未来を失うことです。未来へ繋ぐとか、後世に遺すとか、そういった人類普遍の価値の喪失です。未来へ繋ぐ、ということで言えば、私はここで内村鑑三の『後世への最大遺物』をご紹介したいと思います。


内村 鑑三(うちむら かんぞう、1861年3月26日(万延2年2月13日)- 1930年(昭和5年)3月28日)は、日本人のキリスト教思想家・文学者・伝道者・聖書学者。福音主義信仰と時事社会批判に基づく日本独自のいわゆる無教会主義を唱えた。
(内村鑑三 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)


『後世への最大遺物』は明治27年(1894年)7月、箱根蘆ノ湖畔で開催されたキリスト教徒第六期夏期学校において、内村が行った講話を収録したもので、実に内村33歳の時の講話であります。「後世への最大遺物」は岩波文庫から出版されていますが、無料サイト「青空文庫」にも収録されております。19世紀末、明治中頃の講話であり、また内村はキリスト者でキリスト教徒の夏期学校での講話でもありますから、話しの中には当時の世界思想や明治の思想の影響、あるいはキリスト教の影響を見ることができますが、それにもまして、彼の「この世に生まれたからには後世に何をか遺さん」という気概が見事に表れた講演であります。

そのときに私の心に清い欲が一つ起こってくる。すなわち私に五十年の命をくれたこの美しい地球、この美しい国、この楽しい社会、このわれわれを育ててくれた山、河、これらに私が何も遺さずには死んでしまいたくない、との希望が起こってくる。

(中略)

われわれが死ぬまでにはこの世の中を少しなりとも善くして死にたいではありませんか。何か一つの事業を成し遂げて、できるならばわれわれの生まれたときよりもこの日本を少しなりともよくして逝きたいではありませんか。この点についてはわれわれ皆々同意であろうと思います。
(後世への最大遺物 デンマルク国の話.内村鑑三,岩波書店(岩波文庫),1946)

そこで内村は、では何を置いて逝こうと問いかけます。そして、まず第一に「金」を遺すことがある。遺産金を社会のために遺して逝くことだ、と説きます。しかし金を貯めるには才がいる。それに金を貯める力とその金を使う力がなくてはならぬ。この二つの考えについて十分に決心しない人が金を貯めるのは危険であると言います。

金を貯めるのが下手な者は何を遺せるだろうかと、次に内村があげたものは「事業」を遺すというものです。他の人の金を使って社会のために何事か成し遂げそれを遺すということですね。土木工事をあげているところは当時の世情を反映したものでしょう。現代風にいえば社会インフラです。インフラに限らず何事か後世のために事業をなすことが、遺物であるといいます。

では、これがかなわなければ何を遺すことができようか。そこで内村は「思想」をあげます。自分の考えを実行できないのであれば、筆と墨をもって紙の上に遺す。そうして文学の力をもって思想を後世に遺すのです。あるいは、教師となりて青年に伝えるという方法で思想を遺すというものです。これは前述の金や事業と違って、独力でできる事業です。

しかし、それでは金も遺すことができず、事業も遺すことができず、学者や先生となって思想を遺すこともできなければ、後世に何も遺すことはできないのか。この世に生まれ、この世のために何も遺すことなく逝かねばならぬのか。そもそも、金は用い方によってたいへん利益があるが、用い方が悪いとまたたいへん害を来す。事業もまた利益もあるが害も伴う。思想もまた善いものもあれば悪いものもある。これに対して内村は、誰にも遺すことのできる最大遺物があると説きます。

それならば最大遺物とはなんであるか。私が考えてみますに人間が後世に遺すことのできる、ソウしてこれは誰にも遺すことのできるところの遺物で、利益ばかりあって害のない遺物がある。それは何であるかならば勇ましい高尚なる生涯であると思います。

(中略)

たびたびこういうような考えは起こりませぬか。もし私に家族の関係がなかったならば私にも大事業ができたであろう、あるいはもし私に金があって大学を卒業し欧米へ行って知識を磨いてきたならば私にも大事業ができたであろう、もし私によい友人があったならば大事業ができたであろう、こういう考えは人々に実際起こる考えであります。しかれども種々の不幸に打ち勝つことによって大事業というものができる、それが大事業であります。それゆえにわれわれがこの考えをもってみますと、われわれに邪魔のあることはもっとも愉快なことであります。邪魔があればあるほどわれわれは事業ができる。勇ましい生涯と事業を後世に遺すことができる。

(中略)

この一年の後にわれわれがふたたび会しますときには、われわれが何か遺しておって、今年は後世のためにこれだけの金を溜めたというのも結構、今年は後世のためにこれだけの事業をなしたというのも結構、また私の思想を雑誌の一論文に書いて遺したというのも結構、しかしそれよりもいっそう良いのは後世のために私は弱いものを助けてやった、後世のために私はこれだけの艱難に打ち勝ってみた、後世のために私はこれだけの品性を修練してみた、後世のために私はこれだけの義侠心を実行してみた、後世のために私はこれだけの情実に勝ってみた、という話を持ってふたたびここに集まりたいと考えます。この心掛けをもってわれわれが毎年毎日進みましたならば、われわれの生涯は決して五十年や六十年の生涯にはあらずして、実に水の辺(ほと)りに植えたる樹のようなもので、だんだんと芽を萌(ふ)き枝を生じてゆくものであると思います。
(後世への最大遺物 デンマルク国の話.内村鑑三,岩波書店(岩波文庫),1946)

勇ましい高尚なる生涯といえば、私は青森のリンゴ農家、木村秋則氏が思い浮かびます。木村氏はなにも後世に遺そうと思って彼のリンゴ作りを始めたわけではないでしょう。しかし彼の生き方はまさしく勇ましく高尚な生涯であるといえます。しかも木村氏の成したことは後世に残る大事業であります(いずれ誰の目にもわかるでしょう)。付け加えれば、彼は実に"理系の頭脳を持つ優れたジェネラリスト"でもあります。ちなみに木村氏が師と仰ぐのは、先頃逝去した「自然農法」の福岡正信氏です。
(奇跡のリンゴ―「絶対不可能」を覆した農家木村秋則の記録.石川拓治,幻冬舎,2008)

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秋月便り

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