2009年4月23日木曜日

唯エネルギー論 (2008/06/04)


0.はじめに

 「唯エネルギー論」といいますとなんだか、唯物論と相対性理論を組み合わせたみたいですね。物質はエネルギーであるから唯物論は唯エネルギー論と読み替えることができる、みたいな。こんなことすでに誰か考えているだろうなと思って検索してみますと、まさに「唯エネルギー史観」という言葉で「世界の政治経済はエネルギーを中心に動く」ということを主張しているかたがいます。早速読んでみましたが、これは非常に本質的で興味深い本だと思います。

 さて、このコラムでいうところの「唯エネルギー論」とは、人間の活動や歴史はエネルギーによって支えられている、人間とエネルギーの相互関係によって営まれている、という思いつきを述べたものとご理解ください。そういう視点から眺めたらどう見えるだろうかという試みです。たいそうなタイトルですが、吟味された学術論ではなくて、ほんの思いつきですので、その程度のものとしてご容赦いただければ幸いです。

1.人口はエネルギーに依存する

 思いつきの発端は、人口はエネルギーに依存するのではないか、ということです。平たく言えば、一人分の食い扶持しかなかったら一人しか生きられない、ということ。言い換えれば、一人分の食い扶持が一人の生存を支える根拠となるといえましょう。そして、その食い扶持を確保するために投入できるエネルギーが、これまた人口を支える根拠となるといえるのではないでしょうか。

求めよ、さらば与えられん

 地球上には太陽からのエネルギーが降り注いでいます。実は地球はエネルギーで満ちている。ですが、日光浴をしていれば人は生きていられるというわけではありません。木の実を採るにしても、兎を獲るにしても、魚を捕るにしても、そのためにエネルギーを費やして行動しなければ、それは得られない。初期エネルギーを投入しなければ、新たなエネルギーは得られないのです。薪を燃やすにしても木を持って来て火をつけなければなりません。

呼び水

 井戸から水を汲み上げるポンプは、最初"呼び水"をポンプに注いでこそ、水を汲み上げることができます。油田を掘るにも動力が必要です。宝くじは買わなきゃ当たりません。働かなきゃ金にはなりません。まぁ兎に角、初期エネルギーを投入して新たなエネルギーを得て、その中から次にエネルギーを投入して、また新たなエネルギーを得る。その繰り返しの中で全ての生物の営みは続いております。では最も原初の初期エネルギーはどこから来たのでしょう。それは親から与えられたものです。

モノもまたエネルギーに依存する

 このコラムでは、生物・鉱物など全ての物体を表す時は「物」、人がエネルギーを投入して作った人工物を表す場合は「モノ」として表記することにします。考えてみますと、モノもまたエネルギーの産物であり、エネルギーなくしては存在しないことがわかります。森へ行けば鉄製品が獲れるわけではありませんし、秋になれば木工製品が実るわけではありません。人手によって、あるいは生産ラインによって、どのようなプロセスを経るにせよ、なんらかのエネルギーをかけてこそ、モノはそこに存在するのです。ちょうど食料というエネルギーがあってこそ人が存在できるのと同じように。人が労力をかけて次の食料を得るように、モノもまたエネルギーをかけて次のエネルギーを生産してゆきます。人もモノも、エネルギーの変換体であり、次のエネルギーを希求しながら存続する。そんな循環の中にいます。

労多くして功少なし、骨折り損のくたびれもうけ

 ここでエネルギー利益率(energy profit ratio : EPR)という考えが重要になります。投入する初期エネルギー以上のエネルギーが得られなければ採算が合わないということです。兎を獲る労力のほうが兎を食って獲られるエネルギーより大きければ、あるいは、薪を集める労力のほうが薪を燃やして得られるエネルギーより大きければ持ち出しです。石油を掘るために投入するエネルギーのほうが、掘って得られる石油のエネルギーより大きければ、その石油には価値がありません。原子力発電所を設計して、建設して、管理して、ウラン鉱石を採掘して、運搬して、精製して、核廃棄物を運搬して、貯蔵して、処理して、耐用年数が過ぎれば解体処理するのに投入するエネルギーより、さらに言えばそこに関わる全ての人が生きていけるだけの食料を生産するエネルギーも加えて、原子力発電で得られる(送電損失も考慮したうえで)エネルギーが大きくなければ、ただの無駄骨です。

旧石器時代のエネルギー利益率

 旧石器時代、食料を確保するために投入できるエネルギーは人力なので、その人力を支える食料量こそが主なエネルギー量となります。他には、薪の燃焼熱も利用したでしょうから、食料エネルギーと森林エネルギーが当時の人口を維持する根拠となったことと思われます。採取にしろ狩猟にしろ漁労にしろ、食料を生産する人力は食料エネルギーに由来しており、食料エネルギーを投じて食料を獲得するのですから、この循環はプラス収支でなければなりません。これはエネルギー利益率(EPR)と同じ考えかたです。ですから、エネルギー獲得効率やエネルギー利用効率が良いほうが有利となります。

エネルギー獲得のテクノロジー

 打製石器を作ったり細石器を作ったりするのも、それが効率よく食料を獲得するためのテクノロジーだからです。ところが、黒曜石を探して、それを運搬し、石器を製造する労力も、これまた食物エネルギー由来です。前述したように、打製石器という「モノ」も、労力とその源となる食料エネルギーなくしてはそこに存在しません。

 熟練するほど、投入する労力に比して道具の出来映えが良くなるので、道具の生産性が向上します。道具の生産性が向上すればエネルギー終始的にも有利になります。しかしせっかくの道具も、そこに投入するほどの食料エネルギーを獲得するのに役立たなければ意味がありません。どんなに素晴らしい職人技もそれで食えなければ続かない、です。

 これは、道具の製造技術だけではなく、効率よく食物を見つけ獲得する智恵や直感、体格や体力や俊敏性といった身体能力、大規模に採取するための共同作業についてもいえます。これらは食料採取を効率的合理的にするための食料生産テクノロジーだったといえます。

全てのエネルギーは太陽由来

 ところで、かつて人が利用しうるエネルギーは食料エネルギーと森林エネルギーでした。食料も森林も、どちらも太陽エネルギーを固定した物ですから、もとをたどれば太陽エネルギーに由来するということになります(石炭・石油・天然ガスについても過去に地球に降り注いだ太陽エネルギー由来と考える説が有力です)。太陽エネルギーは地表を暖め、気温を維持し大気を循環させますからの、太陽エネルギーの寡多は森林や食料を大きく左右します。冷害や干ばつです。気温は体温の維持にも関係しますね。ですから、太陽からのエネルギー照射量は、人間の活動に直接的間接的に関与する、基礎的で最も重要なエネルギー量であるといえます。

エネルギー密度は太陽に依存する

 その太陽から地表に投射されるエネルギーは、太陽の黒点活動だとか、火山の爆発による粉塵によって遮られたりだとかの影響を受けるため、地表面でのエネルギー密度は常に一定であるわけではありません。これは採取できる食料エネルギーの密度を左右します。食料が少ないと広範囲にエネルギーを求めなくてはなりませんから、移動距離が大きくなり、効率が悪いですね。投入するエネルギーは大きく、得られるエネルギーは小さいということになります。ここではエネルギー利益率が悪くなります。エネルギー利益率が低ければエネルギー収支はカスカスでしょう。そこにはあまり大きな余剰は期待できません。結局は、人が獲得できるエネルギーの密度は、やはり地表付近に到達する太陽エネルギーの寡多に依存してます。



2 件のコメント:

yutakarlson さんのコメント...

■太陽表面の黒点が異常に少なくなっている―これから地球寒冷化に向かう可能性がある!!
http://yutakarlson.blogspot.com/2009/04/blog-post_22.html
こんにちは。太陽の黒点の活動、昨年の8月あたりから、活発でなくなったそうですね。過去にこのようなことがあった時には、地球は寒冷化して、ロンドンではテムズ川が凍りつき、人々が歩いて往来したり、川の上でクリケットができたそうです。今度もそうなるかどうかは、観測数が少なすぎるので何ともいえませんが、少なくとも地球温暖化などよりは可能性が高そうです。今のところ、地球温暖化詐欺グループのような地球寒冷化詐欺グループなどはできてはいないようです。いずれにせよ、マスコミなどに惑わされず、自分の目で真実を確かめていく必要がありそうです。詳細は、是非私のブログをご覧になってください。

高橋 さんのコメント...

yutakarlsonさん
コメントありがとうございます。
温暖化すると熱塩循環が停止し、北大西洋海流が北上しなくなってヨーロッパは寒冷化するという話しがあります。つまり、温暖化による寒冷化ですね。黒点活動の低下といい、時代はエネルギー減少の時代に向かっているように思えます。しかし一方では盛んに「ストップ温暖化!」「減らそうCO2!」キャンペーン中なので、なにか思惑でもあるのかとうがってしまいます。ブログ拝見しました。勉強させていただきます。