2009年4月22日水曜日

海から見た東北地方の過去と未来 1 東北の過去 (2008/04/23)

 私は東北人です。今回は東北地方について書いてみます。とは言ってみたものの、私、東北人とはいいながら、実は東北地方についてよく知っているわけではございませんし、歴史にも明るくないので、ほとんど「Wikipedia」の受け売りです。それに、東北といってもはたして一括りにできる均一なものなのかという議論もあろうかと思いますし、歴史の見方には立場によって様々な意見がありましょう。そこは、間違い勘違いがございましたらご指摘いただければ幸いです。東北地方は他の地域の人にとってはあまり関心がないかもしれませんが、多少なりとも興味を持たれましたらどうぞお付き合いのほどを。

東北を巡る呼称

 西日本に古代国家が成立し、畿内王権ができた頃から、東北地方は「蝦夷(えみし)」が住む地であると考えられました。さらに細分しますと、東北の太平洋側の人々を蝦夷、日本海側の人々を「蝦狄(えてき)」と呼んだようで、これは支那における東夷・南蛮・西戎・北狄にならったと思われます。そこに暮らす人々自身が自分達のことや自分達の住む地を何と呼んでいたかはわかりません。朝廷が北陸道・東山道・東海道といった地域区分を整備してからは、朝廷支配が及ぶ東北地方南部を東山道の奥という意味で「道奥(みちのく)国」と呼び、やがて「陸奥(みちのく、むつ)国)」と呼ぶようになりました。朝廷による日本海側の支配が進むと日本海側は「出羽(いでは、でわ)国」として分離します。陸奥国のことは「奥州」、出羽国のことは「羽州」ともいい、陸奥国、出羽国を合わせて「奥羽」と言い習わします。

「蝦夷」についての私見...というか、勝手な空想

 ところで、何で「蝦」なんでしょうね。小さく腰の曲がったものと蔑んで、とか。髭が濃かったから、とかいう説がありますが、その他に、「蝦」は蝦蟇(がま)と使われるようにヒキガエルを表す、ゆえに醜いものと蔑んで、そのような字を当てたのではないか、という説もあるようです。これは興味深い。というのは、中国には古くから、太陽には三本脚の烏(八咫烏)がおり、月には兎と蟾蜍(ヒキガエル)がいるとされていました。紀元前2世紀頃の前漢時代の墓から出土した「馬王堆帛画」にも描かれており、当時の宇宙観を表しています。また、随代以前に成立したと思われる中国の鍼灸書「黄帝蝦蟇経)」においても描かれており、月の運行と人体の関連について記されています。

 日本においては、太陽と八咫烏が天皇の象徴として描かれることは周知の通りですが、実は天皇礼服の肩の部分には左肩に太陽の中の八咫烏、右肩の部分に月の中に兎と蝦蟇が描かれており、朝廷儀式の幟にも金烏玉兎(太陽と烏、月と兎(と蝦蟇))が描かれているなど、兎と蝦蟇が月を表すシンボルとして広く認知されていたらしいのです(兎と蛙、まるで鳥獣戯画ですね)。太陽と月、陽と陰。天皇の威光が及ぶところが日の本の国で、そうでない異界は月の世界。だからそこに住むのは蝦蟇。それで蝦夷。そんなふうな空想が広がります。

 さらに妄想を膨らませますと、月は満ち欠けを繰り返す、死と再生の象徴であり、それは日常に対する霊界です。古代の人はそのような宇宙観の反映として、朝廷の支配の及ばない北の地を霊界、黄泉の国と見立てていたのではないでしょうか。そういえば本州最北端は恐山です。古事記(712年)に記される黄泉の国や根の国も、北の縄文世界のことだとすれば、「道奥国」という呼称も、葦原中国と黄泉の国を結ぶ黄泉比良坂の道の奥という意味で大変意味の深いものです。と、聞きかじった話をつぎはぎして妄想を語りましたが、一般には、黄泉とは単純に根の国の地名を指し、鳥取県米子市から黄泉平坂のある島根県東出雲町の間にあった土地という説が有力なのだそうです。
http://www.eonet.ne.jp/~mansonge/mjf/mjf-70.html

「東北」のはじまり

 閑話休題。ところで、「東北」という言葉が出たのは江戸末期になってからのようです。明治になって陸奥国が「陸前」「陸中」「陸奥」に分割されて「三陸」という言葉が生まれました。また出羽国は「羽前」「羽後」に分けられましたが、廃藩置県に伴い現在の東北6県に落ち着きました。新潟県は日本海側での繋がりがありましたし、また、長岡藩が奥羽列藩同盟に参加したことや、新潟県が東北電力の供給を受けていることもあって、明治以降東北と一緒に扱われることがあり、東北6県と新潟県を合わせ「東北7県」と呼ばれることもあります。

東北の歴史

(1) 旧石器時代(約3万5千年前~約1万2千年前頃)~黒曜石

 旧石器時代は氷河期に当たり、海面は現在より100mほど低かったと考えられています。現在の日本列島はサハリンを介して大陸と陸続きで、日本海は内海でした。この頃バイカル湖周辺からアムール川周辺にいた旧モンゴロイドの一群が大型動物を求めてサハリンから南下し、現在の日本列島に住み着いて、これが原日本人とも言える縄文人となったと考えられています。その後長い歴史の中で日本列島には北アジア、朝鮮、支那、南洋、東南アジア、南アジア、中東など様々な地域からの人の流入があったと思われます。

 東北地方からも黒曜石を割って作った石器が見つかっており、この黒曜石は北海道産とみられています。関東地方から出土する黒曜石は神津島産とみられ、当時既に船(丸木船と思われる)を用いた海上輸送があったと考えられます。黒曜石は割ると鋭利な割面を現しますが、奇麗な刃物に割るためにはかなりの熟練が必要だったようです。つまり当時、人口を支えるエネルギーはもっぱら採取食料から得られ、打製石器は食料生産テクノロジーであり、黒曜石は資源であったといえます。約1万2千年前頃、最終氷期が終わると、急激な温暖化が始まり、人々の生活に大きな変化をもたらすことになります。

(2) 縄文時代(1万2千年前~紀元前10世紀頃)~土器

 縄文時代前期は「縄文前期温暖期(7900―4600年前)」にあたり、気候が温暖化して東北地方も現在より暖かかったと考えられます。食料は豊富になり、人々は定住を始めるようになりました。土器の出現からもそれがうかがえます(土器を持っての移動生活は大変ですからね)。土器の発明は食料の調理、加工、保存を飛躍的に向上させます。日本における土器の発明およそ1万2千年前を考えられ、これは世界史的にも最古の部類に入るものだそうです。食料は採取(クリ、クルミ、トチ、ドングリ)、狩猟(ニホンシカ、イノシシ)、漁労(サメ、タイ、カツオ、ブリ、マグロ!)によって得ていたと考えられ、クリの栽培やカキの養殖をしていた形跡もあるとのことです。先頃、東京ミシュランガイドが発表され、星の多さで驚かれましたが(しかもラーメン店を含まずに!)、日本人の食にかける情熱はこの頃からだったのかもしれませんね。

wikipedia 縄文土器

 豊富な食料と縄文式土器という新たなテクノロジーは多くの人口を支え、当時の集落形成の根拠となったと思われます。当時は西日本よりも東日本の方が生活に適していたと思われ、人口の集積が高く、青森津軽地方には三内丸山遺跡で知られる巨大集落ができ1440年にわたって栄えました。出土する翡翠は新潟県糸魚川から、琥珀は岩手県久慈からもたらされ、また南洋のイモガイを模した土器は沖縄で出土するものと似ております。イモガイのペンダントは礼文島船泊遺跡からも出土しており、当時既に日本には広範囲にわたる交易があったものと推測されます。

wikipedia 三内丸山遺跡

 また、秋田の大湯環状列石には二つのストーンサークルがありますが、それぞれが日時計のように思われる凝った作りをしています。そこから察するに、当時の人々は既に宇宙の運行を認識し、概念化していたと思われます。

wikipedia 大湯環状列石

 紀元前4000~3000年頃、世界ではシュメール、エジプト、インダス、そして長江・黄河といった文明が興っています。日本は世界最古に分類される土器を早々と作っていながら、農耕社会への移行が極端に遅い、言い換えれば、食料採取型定住社会が長く続いたという点で特徴的であるといえましょう。採取生活で間に合っていたのかもしれませんね。

 縄文後期には東日本よりも西日本ほうで、ぐっと人口が増加します。これは寒冷化によって西日本のほうが住みやすくなったために人口が増加したのかもしれませんし、東日本の食料が減退したために東日本から人の流入があったのかもしれません。あるいは日本列島の外部からの人の流入もあったかもしれません。この人口の増加が、よりエネルギー集積率の高い食料生産技術である稲作を受け入れる素地となったのではないかなどと想像します。つまり、人口/食料比が高くなって食い詰めたからこそ、食料生産革命が必要とされた、という考えです。近年、日本でも縄文時代晩期には稲作が始まっていたことがわかり、これまでの縄文ー弥生時代の区分が変わってきました。縄文晩期に稲作が始まったとみなすか、弥生時代の始まりがさかのぼったとみなすか、まぁ兎に角、紀元前10世紀頃がそれらしいということです。

(3) 弥生時代(紀元前10世紀~3世紀頃)~稲作と鉄器

この時代、オリエントではアッシリアやバビロニア、ペルシア、マケドニアそしてローマが隆盛を誇り、東アジアでも既に中央集権国家が成立しており、春秋戦国時代~秦~漢~三国時代に相当します。また、儒教や仏教、のちにキリスト教が成立した時期でもあります。

 日本列島では、縄文晩期から弥生時代前期にかけて温暖化します。この頃、大陸南部あるいは長江下流域から水稲耕作技術と青銅器・鉄器技術をもった大陸人集団が九州北部などに渡ってきたと考えられ、これらのテクノロジーは食料生産に革新をもたらします。先に人口/食料比の上昇が食料生産革命を必要としたという私見をのべましたが、稲作というエネルギー集積率の高い食料生産技術によって、その人口を潤してさらに食糧の余剰を生み、それがさらに人口増加をもたらすという増産スパイラルを作ったのではないか、そしてその人口の集積が都市化を促進したのではないかと思います。それからは人口が増えるほどに食料生産の場を必要とし、それを管理するために「領土」が生まれ、それが拡大していったのではないかと。農耕が「国」を必要とした説です。

 多くの人口を養う食料生産技術(農業技術、水利灌漑、農耕具生産、農耕集団のマネジメント)の管理と食料の分配を仕切る権力が強くなり、それらは次第に古代国家の形態をなしたことでしょう。日本神話における天津罪の筆頭に、稲作を妨げることが禁忌としてあげられているのは象徴的です。以後、九州から近畿にかけての地域が日本の中心地となっていきます。当時の日本列島は支那から倭国と呼ばれ、古代国家群の中には支那王朝と通交するものもあり、文字や儒教などが輸入されるようになりました。2世紀中葉~末には、倭国大乱から邪馬台国の卑弥呼の登場となります。東北にも水稲耕作技術が伝わったようですが、当時の水稲技術では東北は稲の好適地でなかったためか、紀元前後までは水稲農耕は定着しませんでした。このため、この頃の北海道~東北は続縄文時代と呼ばれます。

(4) 古墳時代・飛鳥時代(3世紀頃~8世紀初頭)

 弥生時代後期から飛鳥時代(西暦100~700年)にかけて日本では「古墳寒冷期」の時代になります。食料生産の減退は人の移動や領土の確保を活発にさせるものと思われます。西日本では、古代国家群の勢力争いから、徐々に国内の統一に向かいます。神武東征は古墳寒冷期の頃ではないかと考える意見もあります(http://www.teamrenzan.com/archives/writer/nagai/reroma.html)。そんな中、3世紀中葉に畿内に出現した前方後円墳が急速に列島各地に広まります。東北地方でも東北南部には前方後円墳もみられるなど、畿内からの影響があったと考えられますが、東北地方の古墳は総じて少なく規模も小さいものです。4世紀後半から朝鮮半島や中国との交流が活発になり、6世紀頃から大和朝廷の支配は強まって、それは東北にも及ぶようになります。6世紀、百済から仏教が伝来すると、それを利用しようとする蘇我氏が反対派である物部氏を滅ぼして(587年)、朝廷内での勢力を強めてゆきます。

出羽三山開山

 592年、崇峻天皇が蘇我馬子に暗殺されます。このとき崇峻天皇の第1皇子・蜂子皇子は従兄弟である聖徳太子の勧めで都を逃れています。蜂子皇子は京都由良の浜から船で日本海を北上し、現在の山形県由良沖にたどり着き、そこから八咫烏に導かれて羽黒山を開山したと伝えられています。羽黒山という名もこの八咫烏にちなんで付けられたとのこと。ちなみに出羽三山の一つ月山の祭神は月読命であり、天皇が天照大神の系譜であることを考えると興味深く感じます。

 推古天皇の摂政となった聖徳太子は遣隋使を派遣し、十七条憲法(604年)を制定するなど、国家体制を整備します。やがて、大化の改新(646年)を経て朝廷の力が強まるにつれ、豪族支配の地方分権体制から朝廷支配の中央集権体制へと国家体制が変化してゆきます。朝廷からみれば東北地方は未征服地であり、以降、政権側からみれば平定、東北地方側からみれば抵抗の歴史となります。

陸奥国の設置

 7世紀半ばおそらく大化の改新(646年)時に、東北南部を常陸国から分離される形で道奥国(後に陸奥国)が設置されました。日本海側でも現在の新潟(647年)、村上(648年)が次々と越国に組み入れられていきました。658年になると、越国守であった阿倍比羅夫が軍船を率いて日本海を北上し、鰐田(あぎた,現在の秋田)から津軽に到ったといいます。阿倍比羅夫は北海道や沿海州まで渡って交易をしていたと推測するむきもあるようです。阿部水軍は百済救済を目的とした白村江の戦い(663年)に動員されたため、以後は中断しています。白村江の戦いに大敗したことは朝廷に大きな危機感をもたらし、これを契機に国内権力の集中が進みました。

(5) 奈良時代・平安時代(8世紀初頭~12世紀末頃)

 畿内では飛鳥から平城京への遷都(710年)にともない奈良時代が始まります。律令制の整備が進み、農地拡大や租税法の整備など中央集権国家として確立してくると、さらに地方の支配体制も進みます。

出羽国の設置

 朝廷軍は日本海沿いを北進して現在の山形県庄内地方に達し、現在の酒田に出羽柵を設置(708年)します。越国が越前・越中・越後に分割されると、庄内地方は越後国に組み入れられ出羽郡となりますが、すぐに分立して出羽国になり(712年)、その後、陸奥国から置賜郡と最上郡を譲られます(国府は現在の酒田市)。733年には、出羽柵を現在の秋田城跡に移し、秋田沿岸部を支配下に置くことにまります。

 太平洋側では現在の宮城県北部に多賀城が築かれ(724年)て国府が置かれ、南東北は朝廷の支配体制に組み込まれましたが、北上川流域以北や横手盆地など北東北は蝦夷の勢力域であり、朝廷側からは日高見国と呼ばれました。朝廷の支配が進んだといっても散発的に反乱があり、多賀城が奪われるということもありました(780年)。

 8世紀末、平安京に遷都し(794年)、平安時代がはじまります。平安前期には中央集権的な律令国家体制から地方分権的な国家体制改革に移行して武士階層が登場することになります。

アテルイ vs 坂上田村麻呂 ~胆沢の戦い(802年)

 朝廷は東北での支配域を拡大しようと北上川沿いに北進しますが、蝦夷のリーダー阿弖流為(アテルイ)は優れた戦術家であり、知略に長けた巧みな反撃をもってこれを撃退します。それに対して朝廷は征夷大将軍・坂上田村麻呂を派遣(801年)。坂上田村麻呂は胆沢城、志波城を築きます。蝦夷はアテルイを中心に激しい抵抗を見せますが、ついに部下500名をつれて降伏します(802年)。アテルイは都に移送され、坂上田村麻呂は釈放を願い出ますが、再び蜂起することを恐れた朝廷はアテルイらを処刑しました。

俘囚

 この結果、東北地方は朝廷の支配下に入り、蝦夷は独立性を失い捕虜となって、多くは集団で全国に強制移住させられました。朝廷に帰順した蝦夷を「俘囚(ふしゅう)」と呼びます。全国に移住させられた俘囚は同化することを期待されましたが、もともとが狩猟採取民であった彼らの生活は狩猟や馬術・弓など武芸訓練が中心で、一般の公民百姓らとは生活様式が異なっており、なかなか同化しませんでした。この俘囚が有していた乗馬と騎射の技術は当時登場しつつあった武士たちへ大きな影響を与えることになりました。俘囚はなかなか農耕生活になじまず、度々騒乱を起こすため、結局は10世紀頃には奥羽に送還されることになったようです。

 征服した土地の勢力を削ぐという意味で住民を強制移住させることはありそうなことです。とはいっても、すべての土地の人を全て移住させられたわけでもないでしょう。また、全国に移住させられた俘囚が、これまた全員奥羽に帰還させることができたかというのも疑問です。全国に移住した俘囚にはそのまま留まったものも多かったのではないでしょうか。どういう形で存在したかといえば、都の貴族の裏方で、賤業に従事するいわゆる非人として残ったのではなかろうかと想像いたします。だって人が生活すれば穢れ事はあるのだし、都市化するほど、穢れ事は人に任せるようになるものでしょう。実際、非人の起源を俘囚に求める意見もあるようです。また、暴力沙汰担当の傭兵部隊として、武士の一団にも組み込まれていったかもしれません。

安倍氏 vs 源頼義 ~前九年の役(1051年-1062年)

 11世紀にはいると、奥羽にとどまった俘囚の中からは、朝廷に帰服しながらも交易によって力を蓄え勢力をのばすものが現れ、陸奥の安倍氏、出羽の清原氏などが台頭したといわれます(出自に諸説あり)。陸奥の俘囚・安倍氏は朝廷に帰服しながら、陸奥国北上川流域に半独立的な勢力圏を形成していきました。やがて安倍頼良が陸奥国司と対立することになりますが、国司軍は安倍軍を鎮圧できず、朝廷は河内源氏初代源頼信の嫡子・源頼義を陸奥守として赴任させました(1051年)。すると、安倍頼良は頼義に恭順し、名を頼時に改め帰服しました。この時、源頼義方の藤原経清、平永衡は頼時の女婿となります。しかしその後、源頼義は安倍氏に対して度々挑発を行い、安倍頼時の子である貞任に謀反の容疑をかけてその引渡しを求めため、安倍頼時はついに蜂起しました(1056年)。これを待っていた源頼義は直ちに兵を挙げましたが、このとき敵将の女婿である平永衡を誅殺します。同じ女婿という立場の藤原経清はこれにおそれ安倍軍に寝返りました。

 合戦の最中、安倍頼時は横死し、これを好機とみて源頼義は決戦を挑みますが、逆に息子・安倍貞任に大敗してしまいます(1057年)。その後も安倍氏の勢力は衰えず、源頼義は出羽国の俘囚・清原氏に参戦を依頼(1062年)。朝廷軍3千人に対し、清原武則を総大将とした1万以上の大軍が参加しました。形勢は逆転し、源頼義軍は安倍氏の拠点を次々と撃破、貞任は深手で捕らえられ死亡。一大勢力を誇った陸奥安倍氏は滅亡し、代わりに出羽清原氏が奥羽の覇者となりました。裏切り者として捕らえられた藤原経清は惨殺され、経清の妻であった安倍頼時の息女は経清の遺児共々清原武則の子・武貞に引き取られました。

 安倍貞任の弟・宗任は降服し都へ連行されましたが、その際、蝦夷は梅の花の名も知らぬだろうとからかった貴族に対し「わが国の 梅の花とは見つれども 大宮人はいかがいふらむ」と歌で答え驚かせたといいます。宗任は伊予国、さらに筑前国に配流されましたが、宗任の子孫は水軍松浦党となり、平氏方水軍として壇ノ浦の合戦に参加、その後も元寇の際には壮絶に戦ったそうです。この安倍宗任の末裔が前首相・安倍晋三氏であるといいます。

 また、安倍貞任の次男は乳母に抱かれて脱出し、津軽に落ち延び、後に安東姓となって安東水軍をおこしたといいます。

清原家衡 vs 清原清衡・源義家 ~後三年の役(1083年-1087年)

 清原氏の当主についた清原武貞には嫡子・真衡がいましたが、武貞は前九年の役で処刑された藤原経清の未亡人を妻とし遺児(後の清衡)を養いました。その後、家衡が生まれました。武貞の死後、清原氏は真衡が継ぎましたが、その後内紛となり、それに源頼義の嫡子にして陸奥守である源義家が介入しました。真衡の急死によって一旦は収束したものの、その裁定を不満とし、清原家衡が清衡を攻撃しました。清衡の妻子一族はすべて殺されるも清衡自身は生き残り、源義家の協力を得て家衡に反撃しました。戦況は一進一退でしたが、兵糧攻めによってついに家衡は討ち取られ、清原氏は滅亡しました。

 朝廷はこの戦いを義家の私戦として恩賞を与えず、さらには義家を陸奥守から解任しました。義家は関東から出征してきた将士に顔が立たないと、私財のほとんどをなげうって恩賞を出しましたが、これがかえって源氏の名声を高め、関東武士団の棟梁として認められるようになったといわれます。一方、清衡は清原氏の旧領すべてを治めることとなり新たな奥州の覇者となりました。清衡は、実父姓藤原を名のり、奥州藤原氏初代となります。

奥州藤原氏~平泉文化

 藤原清衡は、砂金や馬など朝廷への貢物を欠かさず、朝廷に協力するという姿勢を崩さなかったため朝廷の信頼を得て、事実上の奥州支配を容認されるようになります。そのため、奥州は朝廷における政争と無縁な地帯になり、奥州藤原氏は強大な武力と政治的中立を背景に、源平合戦の最中も平穏に独自の政権と文化を確立する事になります。奥州藤原氏は、奥州で豊富に産出された砂金のほか、津軽十三湊(とさみなと)を交易港として北宋や沿海州とも独自に大陸貿易によって利益をあげていたのではないかという説があります。奥州藤原氏は、清衡、基衡、秀衡、泰衡と4代100年に渡って繁栄を極め、当時、平泉は京の都に次ぐ日本第二の都市となりました。

 なお、平泉の中尊寺自体は、850年に慈覚大師円仁によって開山されたとされており、円仁が開山したり再興したとされる寺は、松島の瑞巌寺、山寺の立石寺など、東北に331余あるといわれているそうです。

 保元の乱(1156年)によって朝廷が武士の力を頼むようになると武士が政治に進出してゆくことになります。平治の乱(1159年)の結果、平氏の権勢が強まり、平清盛の時代には栄華を極めました。しかし、源義家の玄孫にあたる河内源氏七代目棟梁・源頼朝が平氏を滅ぼし(1185年)、時代は武士の世の中になります。

藤原泰衡 vs 源頼朝 ~奥州合戦(1189年)

 奥州・藤原秀衡は、平治の乱で敗れた源義朝の子・源義経をかくまい、その後、源頼朝に追われた義経を再びかくまいます(1185年)。秀衡は頼朝からの引渡要求を拒んできましたが、秀衡の死後、息子・泰衡は頼朝の要求を拒みきれなくなります。頼朝を恐れた泰衡は、秀衡の遺言を破って義経の館を襲い、義経を自害に追い込みました。泰衡は義経の首をもって頼朝との和睦を探りましたが(1189年)、関東の後背に独自の政権があることを恐れた頼朝は、義経を長らくかくまっていた事を罪として、およそ一千騎を率いて泰衡追討に向かいます。頼朝は進軍に泰衡は逃亡を重ねますが、途中、泰衡は部下の裏切りによって殺され、奥州で栄華を誇った奥州藤原氏は4代で滅びました。

 この時、藤原秀衡の妹とも後室とも言われる徳尼公が家臣36人とともに現在の酒田に落ちのび、この家臣団が後に酒田湊を開いたといわれます。

(6) 鎌倉時代・南北朝・室町時代(12世紀末頃~~15世紀後期)

 東北地方へは地元の豪族ではなく、関東武士団が多く配置され、北条氏の所領が広く設定されました。源氏は三代で断絶し、北条氏が幕府政治の実権を握り執権政治が確立します。

津軽安東氏~十三湊

 前九年の役で津軽に落ちた安倍氏の子孫は安東(安藤)姓を名乗り、水軍を興して力をつけ、鎌倉中期頃から陸奥に所領を有してた北条宗家の被官として蝦夷の統括者を任されるようになりました。安東氏は鎌倉時代末期から南北朝時代を通し、十三湊を交易港として、蝦夷地(北海道)のアイヌや中国、朝鮮との交易で栄えました。安東氏は秋田にも支配権を広げ、後に秋田姓を名乗り、戦国大名となっていきます。

 十三湊は天然の良港で、室町時代末に成立した日本最古の海洋法規集である『廻船式目』では、秋田土崎湊とともに三津七湊の1つに数えられる港湾都市でした。室町時代中期、安東氏が南部氏によって追われると十三湊は衰退しますが、江戸時代には北前船のルート上にあって弘前藩の重要港湾であり、上方から蝦夷地へ向かう船の寄港地として再び栄えました。

 その後、鎌倉幕府は二度にわたる元寇により大きく傾き、足利尊氏によって滅ぼされ(1333年)、南北朝時代~室町時代を経て、朝廷は実権を失い、各国に置かれた守護は国内支配力を強めて守護大名へと成長していきます。室町幕府は応仁の乱(1467年)によって大きく動揺し、以後、戦国時代へと移行してゆきます。


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