2009年3月19日木曜日

健全なる精神は健全なる肉体に宿る

・・・我々民衆は、投票権を失って票の売買ができなくなって以来、
国政に対する関心を失って久しい。
かつては政治と軍事の全てにおいて権威の源泉だった民衆は、
今では一心不乱に、専ら二つのものだけを熱心に求めるようになっている―
すなわちパンと見世物を・・・

ユウェナリス『風刺詩集』第10篇77-81行


共和制から帝政に移行したローマは、市民が政治に参加しなくなり関心を持たなくなりました。為政者は民衆を政治的盲目に置いておくため、広大な属州から集められた莫大な富の一部を食糧と娯楽(パンとサーカス)として民衆に与え、民衆はただ与えられる食糧と娯楽に耽って面倒を見てもらうことを当たり前と考えるようになりました。民衆は富と贅沢、美貌と恋愛を競い、そこでは「優れた身体(健全なる肉体)」は自己顕示欲を満たすという欲望の対象となっていたのです。

ローマの風刺詩人、デキムス・ユニウス・ユウェナリスが『風刺詩集』第10編に詠んだ一節“orandum est, ut sit mens sana in corpore sano”は、英語で“A sound mind in a sound body”和訳で「健全なる精神は健全なる身体に宿る」と訳されていますが、本来上述のような時代背景の中から生まれた風刺詩の一節であります。ユウェナリスはこの中で、人々が幸福を求め神に祈る、富・地位・才能・栄光・長寿・美貌は、それを得ることで皮肉にも身の破滅を招く願いである。もし祈るとすれば「健やかな身体に健やかな魂が願われるべきである(It is to be prayed that the mind be sound in a sound body) と語っており、これが「健全なる精神は健全なる身体に宿る」原意であります。

……強健な身体に健全な魂があるよう願うべきなのだ。
勇敢な精神を求めよ。死の恐怖を乗り越え、
天命は自然の祝福の内にあると心得て、
いかなる苦しみをも耐え忍び、
立腹を知らず、何も渇望せず、
そして、ヘラクレスに課せられた12の野蛮な試練を、
サルダナパール王の贅沢や祝宴や財産より良いと思える精神を。

私は、あなたたちが自ら得られることを示そう。必ずや
善い行いによって平穏な人生への道が開けるということを。

ユウェナリス『風刺詩集』第10篇356-64行



ユウェナリスは、自らの顕示欲のために優れた身体能力や見事な肉体美を欲するくらいなら、優れた精神性こそ求めるべきである。優れた精神性とは、死の恐怖を乗り越え長生きに執着せず、怒りの感情や欲望を制御し、贅沢や快楽を追求することよりも苦労を厭わぬことに価値を見ることであるといいます。つまりユウェナリスは、奢侈贅沢の欲望に耽溺し堕落するよりも、慎ましく身体と精神の健やかなることを祈り、克己静謐に努めることが平穏への道であると説いて、当時のローマの世情を皮肉っているのです。

この言葉は、富国強兵国民国家の時代には、兵の身体能力増強と士気向上、それに規律の維持のために引用されました。

「健全な精神は健全な肉体に宿る。虚弱な身体は我侭によって造られる。虚弱な体躯の人が新鮮で剛毅な心をいつまでも持ちつづけることは難しい。それ故、健康で強健な体躯は貴重である」
(普墺戦争、普仏戦争、第一次世界大戦で豪腕を発揮したドイツのフォン・デル・ゴルツ元帥)
教育において“強い心”を育成するためには肉体的鍛錬が必要であることを説いている。
「健全な肉体条件を持たない指導者は、通常、困難な情勢を克服しようとする意志を失うものである。体力に弱点を持つ指導者の弱気は組織にたちまち蔓延する。だからこんな指導者はただちに辞職させなければならない」
(「大戦の回想」マーシャル米大将、1976年)

 教育者は健康な姿を学生に見せなければならない。健康不良の姿を被教育者に曝すことは避けたいものである。


確かに指揮官自身の自己鍛錬として、身体と精神の頑健さの維持は重要な要項でしょう。これは本来、軍をあずかる指揮官が自らに課す目標であったのです。しかしこれが身体鍛錬を課すときの標語(スローガン)のように使われ、あるいは管理のための方便として使われ、戦後はスポーツ教育などに流用されていきます。「健全な精神は健全な肉体に宿る!」と教条的に強調して、理に適わぬ特訓やしごきを課して満足しているような教官・コーチならばなんともお粗末なものです。

一方これに対して「健全な身体でないと精神も健全じゃないというのか」「障碍者差別だ」「身体が不自由でも立派な人がいるぞ」と言う人が出てきます。文脈を汲まず我田引水のように二元論的解釈をして「差別反対」とか「弱者養護」とかに結びつけたがるような人です。ちなみに障碍者とか弱者とかにだって(健常者と同じように)性格の悪い人間はいます。そもそもそのような反論は原意を曲解し、そのまた言葉尻を捉えての解釈術ですし、その動機が説教がましさに対する反発という程度ではあまり生産的ではありません。

ではここで原意から離れて、通常言われる「健全な精神は健全な肉体に宿る」はどう解釈すべきか、ということについて考えてみましょう。確かにスポーツで鍛えた人が皆健全なる精神を持つわけではありません。ジムでトレーニングすれば健全なる精神を獲得するのかといえばそうでもない。また、障害を持つ人にも病気がちの人にも健全な精神を持っている人はいるという主張もありましょう。こうしたことは反例になりそうですが、反例があるからといって「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」という言葉は間違いだ、そんなことは一顧に値しないと断じてしまうのもおかしな事です。実際、身体的に丈夫ではなく具合が悪ければ、それでもなお精神の充実を維持するのは困難なことです。精神的不安の最たるものが健康、貧困、人間関係ですし。そうしますと結局は「AならばB」というような法則ではなく、部分的真実を含んでいる記述という、当たり前のことに落ち着きます。

そもそも「健全なる肉体」とは何かとなりますと、これが人によって受け取るイメージが異なるのではないでしょうか。まずは良く鍛えられた頑健な身体をイメージします。しかしウエイトトレーニングとプロテインとステロイドでビルドアップされたマッチョなボディが健全なのかといわれると疑問ですね。かたや九十歳になっても畑仕事をしているおばあさんもいます。つまるところ「健全なる肉体」とは、必要にして十分な身体能力と高度に安定した生理機能であると解釈するのが妥当ではないかと思います。するとこれは障碍者であっても達成しうるものです。「健全なる精神」となると、もっと様々な解釈が成り立つでしょう。いろんな意見があるでしょうが、これをユウェナリスに立ち返って考えますと、欲望追求、快楽追求の逆になりますから、「健全なる精神」とは質素節制、自己抑制、欲望や怯えの克己、勇気ある行動、忍耐、勤勉といった要素を含むものと解釈されます。そうしますと「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」とは、このような精神の健全性を維持するには身体の健全性が前提となる、となります。ところが面白いことに「健全なる肉体」を維持するには欲に流されず、怠惰に落ちず、節制に努めなくてはなりません。つまり「健全なる肉体は健全なる精神が作る」ものでもあるのです。するとこれは良循環という動的相互関係になります。良循環があれば悪循環もある。「健全性」とはその善い循環を維持する努力といえましょう。「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」とは目指すべきベクトルを示す言葉と解釈するのが良さそうです。するとこれはまた原意の欲望や快楽を追求し堕落を戒める意味につながってきます。

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