2009年3月1日日曜日

螢の光 仰げば尊し

3月ですね。3月と言えば卒業シーズンです。卒業式で「螢の光」や「仰げば尊し」が歌われなくなって久しくなりました。先日、教師をしている方と話しをする機会があり、「螢の光」や「仰げば尊し」が歌われなくなったことが残念である旨を話しましたところ、「今の歌もいいですよ。聞いてみてください。感動しますよ」というお答えでした。私はこの「感動します」に大変違和感を覚えたのです。卒業式は感動し涙を流すことはそうだろうと思います。しかしそれは卒業式という式典に臨んで感動するのであって、感動することが卒業式の目的ではないのです。感動することが目的となっては本末転倒でしょう。卒業式は学問を修めて、その業を卒えたことを認定し、新たな次元に進むことを祝福するための式典です。別れを惜しんで感極まるのはそれに付随する情緒です。感動的な卒業式にしようと考えているのであれば、それは卒業式のエンターテイメント化だろうと思います。まして生徒受けするような曲を選んでとなれば、それは学問の場に消費者に迎合する商業主義を持ち込んでいるように感じます。確かに「螢の光」や「仰げば尊し」の歌詞は、現代ではわかりにくくなりました。しかし、難しくて分からないから簡単で分かりやすいものを、というのでは何のための学校なのかという思いがします。分からないものを分かるようになろうと目標を高く上げることこそ学校に求められることでしょう。卒業式に臨んで歌詞の意味と精神を教えることくらい教師の素養だと思います。

もう一つ、私が「螢の光」や「仰げば尊し」を歌って欲しいと思うのは、世代間の伝承という意味に於いてです。今の子は父母が歌った「螢の光」や「仰げば尊し」がわかりません。それだけではなく昔は当たり前に読まれた本や、当たり前に歌われた唱歌もまた経験しません。桃太郎の話が分からない子は沢山います。これは話や歌を介して、世代間で共有してきた文化が断絶していることであります。「新しい本だって感動する、新しい歌にも良いものがある」という以上の意味があるのです。卒業式では父も母も祖父も祖母も歌った「螢の光」や「仰げば尊し」を、私たちもまた歌う。この、世代を越えて体験を共有することの持つ意味をもっと重大なこととして考えるべきだと思います。

螢の光

蛍の光 窓の雪
書読む月日 重ねつゝ
何時しか年も すぎの戸を
開けてぞ今朝は 別れ行く

止まるも行くも 限りとて
互いに思う 千萬の
心の端を 一言に
幸くと許り 歌うなり

筑紫の極み 陸の奥
海山遠く 隔つとも
その眞心は 隔て無く
一つに尽くせ 国の為

千島の奥も 沖縄も
八洲の内の 守りなり
至らん国に 勲しく
努めよ我が背 恙無く

「螢の光」はもともとスコットランド民謡ですが、それぞれ歌詞を変え世界中で歌われています。日本へは明治10年頃に入り、小学校唱歌として歌詞が付けられました。
一番の、「螢の光 窓の雪」は、もちろん中国の故事「蛍雪の功」にちなみます。「何時しか年もすぎの戸を開けてぞ今朝は別れ行く」のところは(年も過ぎ)と(杉の戸を)を、また、「開けてぞ今朝は」は(戸を開けて)と(明けてぞ今朝は)を掛け、しかも夜が明けて朝になることと、学業を明けて新たな段階へとの旅立ちとなることを掛けています。
二番の、「心の端を一言に幸くと許り歌うなり」の端とは先の一部分ですから、本当はもっと沢山ある心の一端ということです。また、幸とは災いを免れる幸運のことで、許とは「およそその程度に」ということでありますから、「(本当は様々な想いがあるのですが)心の一端を、“幸あれ”という一言にこめて歌うものであります」という意でありましょう。別れ行く人に対する様々な想いを秘め、その無事を祈って歌に込めるという心情が伺えます。
三番の、「一つに尽くせ国の為」という部分は、戦後教育において「好ましくない」という印象を持たれたところでしょう。国ためというところは当時の時代性を反映しています。しかし「国のため=軍国主義」というようなステレオタイプな思考もまた、思慮の浅いものだと思います。ここでは国ですが、社会でも人類でもかまいません。個人の成功や個人の幸福を越えた、より広く志の高い目標が現代の教育の中で歌われてきたでしょうか。いかにに高い志を持たせるかということは教育の大事な目的です。
四番になると、いよいよ「軍国主義だ」という批判が聞こえてきそうです(笑)。時代の中で、千島が樺太に、沖縄が台湾に拡大した時期もあったようなので、ますますもって目くじらを立てられそうですが、当時はそれが日本の領土でしたから当然です。国土を守るということは主権を守ることです。それが国であれ、家族であれ、あるいは名誉であったり稔侍であったりするかもしれませんが、決然とした気持ちで何かを守るという気概が自立の第一歩でもあります。さて、「至らん国に 勲しく 努めよ我が背 恙無く」ですが、「至らん」の「ん」を否定と解釈すると「未熟な国に対して」ということに受け取られますが、そうではないでしょう。これは「至らん。国に(勲しく)努めよ。我が背、恙無く」と解釈するのが良いように思います。「至る」は「到達する」ですから、この場合の「ん」は意志を表しているでしょう。そういう高みに到達せんとする決意の表れと解するのが妥当だと思います。「勲し」とは、薫しい手柄・功績をあげる様のことです。手柄・功績は結果とか成果とは少々意味を異にします。結果・成果は個人的な内容も含みますが、手柄・功績は社会的なものです。世のために何事か美事に成し遂げる様を表しており、そこに志の高さがあるのです。「そのような気持ちをもって国に努めなさいませ。貴男様。恙無く。」ということです。立志を持って旅立たんとする(愛しい)人を、案ずる気持ちを添えて送り出す心情が現れています。

「螢の光」に限らず、「国の為」という言葉を排除するかのような思考が、人生の目標を極めて個人的なものに矮小化してきたのではないかと思います。何事か大きな志をもって多くの人のために何事か成さざらんという思想性の高さが歌われることが少なくなり、幸せである、ハッピーである、一人一人の夢をといった、個人的で情緒的な内容の歌詞が多くなってきているのではないか。それが公益性や利他性といった視点でものを考えることの価値が薄らいできているように感じることと無関係ではないのではないように思います。何も「お国のため」を強調したいわけではありません。そもそも「国」という言葉をどうとらえるかというところから吟味しなくてはなりません。私は「麻生政権のため」とは思いませんが(それは民主党だろうがどこだろうが同様です)、「日本のために何かしら力を尽くしたい」とは思います。

では、そのために何が出来るか。私一人が世の中を変えることはできません。市井の一人に何ができるのか、そこで「修身齋家治国平天下」(IMEで変換すると「終身制か遅刻閉店か」と出るのはいかがなものか)です。「修」とは、凸凹のないすらりとした姿に調えることです。知識はそれを知っただけでは、ゴツゴツといびつなものです。智者と物知りは似て比なります。知識を得て、その体系が洗練され、しかもそれを実践できるよう身につくことが、学を修めることであり、修身とはそれによって自分の行いを正しくすることです。「齋」とは、清め調えることです。「欲斉其家者先修其身(大学)」。身を修めることが、家を斉えることにつながる。家を斉えることが国を治めることにつながる。国を治めることが天下を平らかにすることにつながる。これはフラクタルですね。まずは、学を修め身を修めるよう実践するところからですね。ところで、だとすれば「螢の光」や「仰げば尊し」が歌われなくなったこの20年が、個人主義が強まった現在の世の中とフラクタルであるとは言えませんでしょうか。我ながら極論だとは思いますが、全く見当外れでもないように思っています。



仰げば尊し

仰げば尊し 我が師の恩
教の庭にも はや幾年
思えばいと疾し この年月
今こそ別れめ いざさらば

互に睦し 日ごろの恩
別るる後にも やよ忘るな
身を立て名をあげ やよ励めよ
今こそ別れめ いざさらば

朝夕馴にし 学びの窓
蛍の灯火 積む白雪
忘るる間ぞなき ゆく年月
今こそ別れめ いざさらば

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