2009年2月16日月曜日

高橋是清

高橋 是清
(たかはし これきよ)
1854年9月19日-1936年2月26日

高橋是清(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
立憲政友会第4代総裁。
第20代内閣総理大臣(在任: 1921年(大正10年)11月13日-1922年(大正11年)6月12日)。
総理大臣としてよりも蔵相としての評価の方が高い。

嘉永7年閏7月27日幕府御用絵師・川村庄右衛門(47歳)ときん(16歳)の子として、江戸芝中門前町に生まれた。(中略)生後まもなく仙台藩の足軽高橋覚治の養子に出される。

その後、横浜のアメリカ人医師ヘボンの私塾(現・明治学院大学)にて学び、慶応3年(1867年)仙台藩の命令により、勝海舟の息子・小鹿(ころく)と海外へ留学した。しかし、横浜に滞在していたアメリカ人の貿易商、ユージン・M・ヴァンリード(Eugene M. Van Reed)によって学費や渡航費を着服され、更にホームステイ先である彼の両親に騙され奴隷契約書にサインし奴隷としてオークランドのブラウン家に売られる。牧童やぶどう園で奴隷としての生活を強いられ、いくつかの家を転々とわたり、時には抵抗してストライキを試みるなど苦労を重ねる。

明治元年(1868年)帰国する。帰国後の明治6年(1873年)サンフランシスコで知遇を得た森有礼に薦められて文部省に入省し、十等出仕となる。英語の教師もこなし、大学予備門で教える傍ら当時の進学予備校の数校で教壇に立ち、そのうち廃校寸前にあった共立学校(現・開成高校)の初代校長をも一時務めた。

その間、文部省農商務省(現・経済産業省及び農林水産省)の官僚としても活躍、農商務省の外局として設置された特許局の初代局長に就任し、日本の特許制度を整えた。官僚としてのキャリアを中断して赴いたペルーで銀鉱事業を行うが、すでに廃坑のため失敗。再び帰国した後に川田小一郎日銀総裁に声をかけられ、日本銀行に入行。その後、日銀副総裁、日銀総裁などを務め、ロンドン留学時代の人脈を利用して日露戦争の戦時外債の公募などで活躍した。明治38年(1905年)、貴族院議員に勅選。
(中略)
その後高橋は政友会総裁を田中義一に譲り政界を引退するが、昭和2年(1927年)に昭和金融恐慌が発生し、瓦解した第1次若槻禮次郎内閣に代わって組閣した田中義一に請われ自身3度目の蔵相に就任した。高橋は日銀総裁となった井上準之助と協力し、支払猶予措置(モラトリアム)を行うと共に、片面だけ印刷した急造の200円札を大量に発行して銀行の店頭に積み上げて見せて、預金者を安心させて金融恐慌を沈静化させた。

政友会総裁犬養毅が組閣した際も、犬養に請われ4度目の蔵相に就任、金輸出再禁止(12月13日)・日銀引き受けによる政府支出(軍事予算)の増額などで、世界恐慌により混乱する日本経済をデフレから世界最速で脱出させた。また、五・一五事件で犬養が暗殺された際に総理大臣を臨時兼任している。続いて親友である斎藤実が組閣した際も留任(5度目)。また1934年に、共立学校での教え子にあたる岡田啓介首班の岡田内閣にて6度目の大蔵大臣に就任。インフレを抑えるために軍事予算を縮小しようとしたことが軍部の恨みを買い二・二六事件で赤坂の自宅二階で青年将校達に暗殺された

今日の扱われ方を見ると、手腕に比してどうも評価が低いような印象を受けます。ここにも「水兵問題」が垣間見えるようですね。

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