2009年2月15日日曜日

五胡十六国小辞典(書きかけ)

以下の内容は、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』を引用、参照しています。

五胡十六国時代(ごこじゅうろっこくじだい) : 304年-439年。中国の時代区分のひとつ。304年の漢(前趙)の興起から439年の北魏による統一までを指す。五胡十六国とは、当時中国華北に分立興亡した民族・国家の総称で、五つの異民族、十六の国という意味だが、「五」や「十六」という数は正確ではなく、「多民族・他国家」ととらえるのが妥当。

五胡(ごこ) : 支那大陸中原周辺に住む諸民族のうち、匈奴・鮮卑・羯・テイ・羌の五つを指す。羯は匈奴の中の一部族。

匈奴(きょうど) : 紀元前5世紀ごろから5世紀にかけて北アジアに存在した強大な遊牧民族。またはその遊牧国家。4~6世紀に東欧や地中海諸国に侵入したフン族と同族であるとする説も有力である。モンゴル系、テュルク系などの諸説があるが定説は無い。民族の連合体という説や政治集団の名前であるという説もある。かなり早い時期からモンゴル高原に存在していたと思われ、紀元前5世紀ごろからスキタイ文化を取り込んで、優れた騎馬技術と武器により周辺諸国を圧迫した。八王の乱によって中国が大混乱した状況を見て単于の血筋である劉淵は自ら皇帝を名乗り(後の前趙)を建て(304年)、これが五胡十六国時代の
始まりとなる。
【図 冒頓単于の頃の匈奴の領土】
単于(ぜんう):匈奴など北アジアの初期遊牧国家の君主の称号。中国の王や皇帝に相当する。
冒頓 単于(ぼくとつ ぜんう、?-紀元前174年):秦末~前漢前期にかけての匈
奴の単于。

鮮卑(せんぴ) : 紀元前1世紀頃から6世紀にかけて中国北部に存在していた遊牧騎馬民族。東胡から出た民族で、言語学的にはモンゴル語系統という説が強い。テュルク系とツングース系との混血とする説も有力。牧畜、狩猟を生業とし匈奴に服属していたが、匈奴が北と南に分裂すると半独立状態になった。八王の乱が起きると鮮卑族は傭兵として雇われ、徐々に中国内部に移住するようになった。匈奴の劉淵が独立して前趙を建てると、鮮卑族もこれに倣い中国に国を建てた。

(けつ) : 匈奴内の一部族であり、羯室と呼ばれる場所に住んでいた事からこの名前がある。当時の羯族は経済的に困窮し、飢饉戦乱の中、部落は離散した。羯族の石勒は流浪の旅の後、奴隷の身となるも、八王の乱の混乱に乗じて群盗となった。匈奴の劉淵が漢(前趙)を興していたのでこれに307年に帰順し、後に独立して趙(後趙)王を名乗った。

テイ : 紀元前2世紀頃から青海で遊牧生活を営んでいた遊牧民族。チベット系との説がある。テイ族は前漢代より甘粛・陝西・四川に居住し、漢の支配下に入っていたため漢化が著しく、後漢末期にはほとんど定住農耕民として暮らしていた。西晋が衰亡して匈奴、鮮卑が侵入するとテイも東へ移動し成漢、前秦、後涼などの国を建てた。中でも前秦苻堅は華
北を統一したが統一を目指した南征軍が東晋に大敗してからは分裂していき、最後のテイ人国家であった仇池が滅ぼされると漢人に同化されていき、史書から姿を消した。一部の部族は現在のミャンマーに南下し、パガン王朝を建国したという。

(きょう) : 羌は古代より中国北西部の青海で遊牧生活を営んでいたチベット系民族。タングート、蔵人、番子などとも呼ばれる。その「羌」字の象形は、牧羊する人を指していると言われる。青海、チベットの周辺で生活し、漢代には漢領内に進入したりもした。西晋が衰亡後、中国に匈奴や鮮卑が侵入すると、羌も同じように陝西に入り、自らの国を建てた。その後前秦に吸収されるが、前秦が東晋に大敗し分裂すると羌も陝西に割拠し後秦を名乗った。後秦は417年に東晋の劉裕に滅ぼされる。現在羌族は四川省アバ・チベット族チャン族自治州内に集住している。

十六国(じゅうろっこく) : 304年の漢(前趙)の興起から439年の北魏による統一までに勃興・滅亡した
国の中で、特に、前涼前趙成漢後趙前燕前秦後燕後秦西秦後涼南涼北涼南燕西涼北燕を指す。

前涼(ぜんりょう,301年-376年) : 漢族の張軌によって建てられた国。始祖の張軌は前漢の太祖劉邦の部下張耳の末裔。西晋の役職を務めていたが、八王の乱の混乱から退避して、301年河西に移り涼州刺史(長官)となって現地の鮮卑を討ち半独立の勢力となる。376年、統一を目指す前秦の前に降伏し前涼は滅び、前秦の華北統一が完成した。

前趙(ぜんちょう,304年-329年) : 南匈奴の単于の末裔劉淵によって起こされた国。国号は当初は漢であったが、316年に晋(西晋)を滅ぼした後、318年に国号を趙に変えた。部下の石勒が自立して趙を名乗り、これに破れて328年に滅亡した。劉淵の趙を前趙、石勒の趙を後趙と呼び区別する。

成漢(せいかん,304年-347年) : チベット系テイ族の一派である李雄によって建てられた国。298年父李特が6郡の流民を率いて蜀に入り、李雄の代なって四川を掌握して国号を成とした。李雄は善政に努め繁栄したが、李雄の死後、皇位継承争いから国は傾き、国号を漢に改めたがその後も暴政によって衰退し、347年に東晋に征討され滅んだ。

後趙(こうちょう,319年-351年) : 羯族の石勒によって建てられた国。石勒は劉淵の部下であり西晋の討伐に大きな功績を挙げた。劉淵の死後反乱が起きると石勒はこれを鎮圧し、その後独立して趙王を名乗った(後趙)。329年に石勒は前趙を滅ぼして皇帝を称したが、石勒の死後は後継争いから国力が消耗し、漢族の冉閔に国を奪われ、351年に滅んだ。

前燕(ぜんえん,337年-370年) : 鮮卑族の慕容コウによって建てられた国。鮮卑の慕容部族は西晋の傭兵として他の部族と抗争していたが、慕容コウは前趙に抗して燕を起こした。息子慕容儁は350年、後趙を滅ぼした冉魏を落として華北東部を支配下に入れた。慕容儁の死後、息子の慕容イが皇位についたが、実力者慕容垂を排除しようとして人望を失い、370年に前秦によって滅ぼされた。

前秦(ぜんしん,351年-394年) : チベット系テイ族の苻健によって建てられた国。国号は秦。西秦と後秦と区別して前秦と呼ぶ。テイ族は初め前趙に従っていたが、前趙が後趙に、後趙が冉魏に滅ぼされて東晋に服属した。351年テイの苻健は東晋から独立して秦を起こし、東晋の北伐を撃退して勢力を伸ばした。苻健の甥にあたる3代の苻堅は明敏多才であり、漢人王猛を登用して内政の充実を図り、前燕・前涼・代といった国々を次々と滅ぼして華北を統一した。383年、南北統一を目指して南下したが、ヒ水の戦いで東晋に大敗し敗走した。これを機に諸部族が謀反し、後涼・西秦・後秦・北魏・西燕・後燕などの国々が独立した。前秦は衰え、394年、後秦に滅ぼされた。
【図 前秦と東晋の領域】

後燕(こうえん,384年-407年) : 鮮卑族の慕容垂によって建てられた国。慕容垂は前燕の皇族であり有能であったが、謀殺されそうになったため弟とともに前秦に亡命した。華北を統一した前秦がヒ水の戦いで大敗した際には前秦の苻堅を守って長安に連れ帰った。慕容垂は弟に苻堅を殺して自立しようと誘われるが、それは出来ないと断り、東を鎮めると言う名目で故郷に戻り、翌384年に自立して燕王となって華北東部と遼西を領有した。高句麗、北魏と抗争を繰り広げたが、407年、漢人将軍馮跋が皇帝を廃して北燕を起こしたことで後燕は滅んだ。

後秦(こうしん,384年-417年) : 羌の姚萇によって建てられた国。諸氏乱立の中、羌族の姚氏は時勢を見ながら服属先を変え、姚萇は前秦に伏した。前秦の苻堅に重用され姚萇は多大な功績を挙げたが、384年前秦から自立した西燕の討伐に向かったが敗れ、渭水北岸へ逃れた。ここで盟主に推され秦王(後秦)を称した。その後、前秦と西燕との抗争の間隙をついて長安以北を次々占領し、内乱によって長安を放棄した西燕に替わって労せず長安を占拠した。その後東晋との緊張が高まる中、内部の分離独立が続き国力は急速に衰退した。417年、東晋に攻め落とされ滅んだ。






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