2008年11月17日月曜日

架空通貨


 地域通貨とは、「法定通貨ではないが、ある目的や地域のコミュニティー内などで、法定貨幣と同等の価値あるいは全く異なる価値があるものとして発行され使用される貨幣(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)」です。今日の日本で暮らす私たちは「円」という単位の通貨で生活しています。複数の通貨単位があってそれが共存している世界にあまり馴染みがありません。しかしそれは現代の日本で暮らす私たちにとって馴染みがないというだけであって、複数の通貨で暮らすことは別に珍しいことではないのです。

 通貨は所詮、交換を仲立ちする、人の間の取り決めです。私たちの財布に入っている紙や金属は、その取り決めの印(シンボル)であって、価値そのものではありません。お金は実体のないもの、「無」です。本来、交換は当人同士が信用に基づき納得すればそれで事足ります。

 私は「労働」というものを提供します。相手は「米」というものを提供します。互いに等価と納得いくところで交換します。ところが、私が今すぐには「労働」を提供できない場合、後でそれを提供しますという「約束」で、相手の「米」をもらい受けます。その約束の印に「券」を発行します。私はその「券」分だけ架空のマイナスになっていますが、それと等価の「米」を得ます。相手はその「券」分だけ架空のプラスとなりますが、それと等価の「米」を失います。相手が私を信用し、私が相手の信用に応えて、後にその「券」分の「労働」を返せば、それで交換は完了です。中央銀行券はいりません。母の日に「肩たたき券」をプレゼントするのは、未来の労働の贈与です。この約束に信用があれば「券」すら発行する必要はありません。口約束で十分です。「武士に二言はない」というヤツですね。武士は一度口にしたことは必ず守る、という信用あってのことです。ここでは「券」という言葉をあえて使いましたが、これは約束手形と似ていますね。

手形の由来

戦国時代は「手形」(てぎょう)と云い、合戦の際、敵方に殺されそうになった武者が、命乞いの為に紙または布に自らの掌に血を付けて押し当て手形を作成し、後日お金を渡す証としてそれを相手に渡した。助けた相手は合戦が終わった後にその手形を持ってそれを発行した武者のもとへ赴き約束のお金を貰った。(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

 しかし、私がその約束を破って「労働」を返さず逃げてしまったらどうでしょう。私は「券」分の米を余計に得て、相手はそれと同じ「米」を損します。私は「略奪」し、相手は「搾取」されました。これではうかうか交換できません。そこで、その「券」に信用の裏付けがあって、他でも交換できるというほうが良いということになります。その「券」を交換所に持って行けば金に替えてもらえるという裏付けがあれば相手が「労働」を払わずに逃げても関係ない。というか、別に「労働」での返済を必要としません。互いに信用を他所に置いて、信用できる「券」を共通の交換媒体にすればよいということです。それが銀行券ですね。銀行券に互いの信用を託しているということです。ところが銀行同士で銀行券が異なれば、そのやり取りが面倒です。統一した銀行券があれば事はより便利です。そこでいろんな銀行に銀行券を貸し付けるのが中央銀行です。
 
 通常、中央銀行は一つの通貨に対して一つ存在し、この通貨量を調整する権限を持っています。そのため大きな影響力があります。つい最近まで世界の決済通貨はドルだったので、ドルを発行しているところが一番エライということになっていました。中央銀行が一手に通貨の発行を仕切っているので、その通貨は信用がある、ということになっています(一応)。どんなに似ていてもニセ札は信用されません。私たちは、一つのところが出している唯一のものということに信用を置いて交換しているわけです。信用をお任せしているので、中央銀行券に依存しているということもできます。

 ここで疑問が生じます。信用がおけるのなら、なにも中央銀行の券でなくてもいいんじゃないか。もちろんそうです。それに中央銀行券が信用できるというのも怪しいものですから。実際、中央銀行券の信用がなくなって当てにならなくなったことは古今東西多々あります。ちなみに中央銀行券が信用ならなくなった時、交換の仲立ちとして役立ったのが地域通貨です。さて、それじゃぁ、どうして中央銀行券がこれほど重宝されているのか。それは都合がいいからです。交換するほうにとっても、発行するほうにとっても。交換するほうの都合とは便利がいいということです。発行するほうの都合とは、銀行の儲けのことです。

 銀行券ではなく、交換の媒体となるものがあれば、銀行券の都合に左右されずに交換ができます。ではどんな方法があるでしょうか。一つには「信頼」です。約束は絶対遂行する社会的価値観を共有している社会であれば、信用だけで交換が可能です。これだととってもローコストだし。民度が高いと言うことはそれだけで省エネですね。そうあったらいいだろうとは思いますが、記憶違いや勘違いなどということは発生するものだし、悪意のある人がいない世の中を待望するほど私は楽観的ではないので、現実的には難しいのでないでしょうか。
 
 「券」を発行するのではなく、券を発行したとみなして、その出入りを記録しておくというのはどうでしょう。貸し借りを互いに帳簿に付けておくわけです。これは各月締めで請求支払をしている人ならお馴染みですね。また銀行振込もそうです。物のやりとりをするたびに現金書留で送金しているわけではありません。通帳から引いた、通帳に足した。そのやりとりだけです。それを信頼する第三者、つまり銀行に委ねているわけです。信頼できる出し入れの記録だけなら、もしかして銀行っていらないんじゃないの?
 
 では、こういうのはどうでしょう。私は自分を登録してサイバー空間に通帳を開きます。私は「架空の価値」を提供します。相手は「米」というものを提供します。自分の通帳から相手の「米」と等価な分の「架空の価値」が減じたと記録され、相手の「米」をもらい受けます。相手の通帳にはそれと等価の「架空の価値」が加えられたと記録され、それと等価の「米」を譲ります。互いにそのサイバー空間の通帳記録に信用を置き、交換は成立します。中央銀行券はいりません。では、相手が「米」を送らず逃げてしまったらどうでしょう。サイバー空間の私の通帳には「米」と等価の「架空の価値」が減じていることが記録され、相手の通帳には「米」に等価の「架空の価値」が加わったことが記録されています。これを申し立てれば、相手のインチキは明白です。インチキをした相手はそのサイバー空間から閉め出されます。

 最初に私の通帳にあった「架空の価値」はどこから来たのでしょう? 一番最初は「労働」の約束のもとにもらいました。あるいは親からの「贈与」もあります。現実世界の通貨を両替したものもあります。とにかくそうやって最初の「架空の価値」はできました。あとは「架空の価値」のやりとりの中で、少しずつプールしたものです。そうやって出し入れしているものですから、そんなにプールしておくこともありませんが。


2008年11月2日日曜日

交易

自給自足でまかないきれないところを、身近な範囲で互いに交換し、それで間に合っていれば、地産地消で事足ります。

地産地消で間に合っているのはいいのですが、一方ではそれ以上交換が活性化しづらいとか、工夫が生まれにくいという芳しくない面もあります。経済の停滞知識の停滞が起こりやすいということです。現代では多くの国々、多くの共同体が近代的な文明に呑み込まれてしまいましたが、それ以上の発達というものを選択せずに、既存の様式を維持してゆくという伝統的生活というのも選択肢の一つです。

変化が少なく、同じ様式で均一化した世界は、その環境に対してより適応したものに安定します。共同体でも個人でも、ある状況ある環境に最適化することを環境適応と呼びます。これは環境が不変という条件下ではたいへん有利です。これに対し状況、環境が変化するような時に、その変化に対応する柔軟性、可塑性を持ち、即時対応できることは、変化する状況を生き延びるのに有利です。これを変化適応といいます。一般に環境適応が進んだ共同体や個人は、変化適応しづらいという側面があります。あるルールに特化した技術はそのルールを変えられると打撃を受けるなどというのもこれと似ていますね。

共同体の内部に多様性を含有していれば、変化適応を要する際の保険になります。つまり多くの平均的な人々と、少数の変わり者がいるほうが、いざ環境変化が起こった際に生存の糸口が見つかりやすいといえましょう。実際、生物の遺伝子とは、そのような表現形としては発現していない多様性を包含した総体なのです。伝統的で安定した、それゆえに均一化した共同体が、時代の変化の波に呑み込まれるという姿は、センチメンタルな気持ちにさせられますが、こういったことと関係しています。

ここで、地産地消が成り立つような共同体間で、互いの余剰物、しかし他方にとっては必要なものを交換することが発生します。そしてここでも交換媒体が機能します。暴力によって、権力によって交換する方法。これは実際に戦になれば互いに損害が発生して生産が落ちますから、実際には容易に使える方法ではありません。ですから通常は、説得によって、交渉によって交換する方法や、あるいは通貨によって交換する方法が用いられやすいといえます。地域間の通貨が異なれば、そこに交換に比率の取りきめが必要になります。しかし常に互いが満足するような交易が成立するとは限りません。彼我の力の差によって交易には不平等がつきまとうことが多いものです。

こうして、物流が活発になり、人の流れも活発になり、物の交換とともに知識情報の交換も活発になります。大規模に広範囲に交易が成り立つようになりますと、自分の所有しているものと相手の所有しているものを交換するという単純な交換ではなく、こちらの物をあちらに持って行き、あちらの物をこちらに持ってくると、その差分で利益が出ることに気付き、それに特化する者が現れます。すると今度は、その流れを独占すれば都合がよいことに気付く者が現れてきます。交易を独占すれば、それを回すだけで利益と情報が集まってくるというわけです。

これもまた、暴力(権力)をもってこれを媒体として行うこともあります。また、言語(宗教)や通貨(金融)をもってこれを媒体に交易を独占しようとすることもあります。いずれにしても大きくなれば大きくなるほど、競合相手は少なくなりますので独占しやすくなります。独占すれば、今度はいかに利益を大きくするかという誘惑が生じます。人の欲とは際限のないものですね。物や情報が流れることでその間に利益が生まれるのですから、多く集めるためには多く回転させればよいということになります。

ところが、独占状況下で物流と情報を大量に回しますと次の問題が生じます。何かというと、世界の均一化です。サイズが大きくなったものの、流通が多くなればなるほどいずれは均一化します。この場合の均一化は所得や身分、階層の均一化ではなく、文明の均一化とう意味です。格差は生じるでしょうが、同じ文明の中での差異であって、多様性が失われていることに変わりはありません。ここでも環境適応に長けた者が、変化適応についていけなくなります。貴族だろうが奴隷だろうが、富裕層だろうが貧困層だろうが、その世界が唯一の世界だと思っている者は他の世界の可能性を想像だにできないということです。

ところがその唯一の世界も、その権力が、あるいは通貨信用が失われると、つまり交換媒体(コミュニケーション・メディア)が成立しなくなると、途端に体系は流動化し秩序が失われ、無規範と混乱のなか崩壊します。『バベルの塔』の物語で、奢った人々に怒った神が違う言葉を話させたところ、混乱して塔の建設を投げ出し散り散りになった、ということはこのコミュニケーション・メディアの消滅を暗示しているようで興味深いものです。

もともと人々は同じ1つの言葉を話していた。シンアルの野に集まった人々は、煉瓦とアスファルトを用いて天まで届く塔をつくってシェム(ヘブライ語、慣習で「名」と訳されている。名誉・名声の意味も有る)を高く上げ、全地のおもてに散るのを免れようと考えた(偽典の「ヨベル書」によれば、神はノアの息子たちに世界の各地を与え、そこに住むよう命じていた)。神はこの塔を見て、言葉が同じことが原因であると考え、人々に違う言葉を話させるようにした。このため、彼らは混乱し、世界各地へ散っていった(『創世記』の記述には「塔が崩された」などとはまったく書かれていないことに注意)。「創世記」の著者は、バベルの塔の名前を「混乱」を意味する「バラル」と関係付けて話を締めくくっている。
(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
交易が起こるのは良いとしても、それが独占され統一されて、唯一の世界になると、それは巨大な単相社会となり、変化適応の能力を欠いてしまうということが言えるのではないでしょうか。すると、そこに私たちが学ぶべきところがあります。多様性を維持した地産地消社会群を、適度(ここが難しい)な交易で結ぶ社会が、変化しつつ安定した社会なのではないかと。

地産地消

自給自足が可能なら、それで特に差し障りはありませんが、それでは不足するものがあることがあります。あるいは、自分で消費するには多すぎて、そのままではただ腐らせてしまうことがあります。

自分が所有していないものを、他者が所有しているとき、それを手に入れたいと羨む欲動を羨望(envy)といいます。「あの子のバックいいなぁ」ということですね。ちなみに、これに対して、自分が享受していない関係を、他者が享受しているとき、その関係を自分が取って代わりたいと妬む情動を嫉妬(jealousy)といいます。「あの子が彼と付き合ってるなんて許せない」というヤツです。つまり、羨望は所属性、嫉妬は関係性に関して、他者の要素を我が物にしたいと求める心理といえましょう。

さて、他者がそれを所有していて、自分がそれを持たず、しかしそれが欲しいと願う場合、どうしますか。単に所有欲を満たすというにとどまらず、それを手に入れるほうが生存の可能性が高まる場合、あるいはそれを手に入れなければ生存の危機であるという場合であれば、なおのこと必死となりましょう。なんといっても「必」「死」なのですから。

そこで、それを得るための行動を起こします。

一つには、暴力です。力ずくで奪う方法です。これは返り討ちにあうリスクや負傷を負うリスクを伴います。一度は成功しても、次からは警戒され、効率が悪くなる可能性もあります。そこで、他の暴力から守るという交換のもとで一定の利益を得るという申し合わせが生じることもあるでしょう。これが権力となり、洗練されて法規となり、租税となっていきます。

一つには交渉です。相手にをれを恵んでくれるよう、お願いし説得するという方法があります。相手が求む物をこちらが所有していれば、交換するという形で手に入れることができるかもしれません。持っていなければ、相手の望むことを使役するということで交換することもあり得ます。「~してあげるから」という方法ですね。この交渉は言語で行われるとスムースですが、言語が通じなくても身振り手振りや、品物を見せ合い交換するという非言語的交渉によっても可能です。

ところが、今はさし当たり相手の望むものは持たないが、後に相手の望むものを提供できる当てがあるという場合、後の提供を約束して、今、目の前の物を得られないかという場合が出てきます。信頼や好意を担保に時間を超えた交換をすることになります。数人規模の信用貸しなら記憶に頼ることもできるでしょうが、数が多くなると、誰にどれだけ借りて、誰にどれだけ貸しているのか、管理が煩雑になります。

そこで、両者の同意の下に信用貸しの印を工夫しました。石でも貝殻でもいいのですが、時間によって変わらないものが望ましいでしょう。貨幣の発明です。互いの信頼が担保になれば粗末な物でも信用貸しの印になりますが、踏み倒された時の保険として、それ自体が食べることができたり(米)、希少性がある(金・銀)などの価値があれば担保価値があるというものです。これが貸し借りの両者だけではなく、複数の人の間で信用を担保するものだと承認されれば、物を貨幣に交換し、その貨幣で他の人との交換が可能になります。通貨ですね。通貨を貯めておけば、任意の時に任意の物と交換できることになり大変便利です。


このように、暴力、言語、通貨は、交換を仲立ちするものとして機能します。これらをまとめて交換媒体(コミュニケーション・メディア)と呼びます。自分が提供する分は少なく、相手から獲得する分は多くすれば、儲けたように感じますが、それは信頼を失い、長期的に見れば不利になります。ですから信用を維持するような安定した交換関係を継続するほうが、生存の可能性が高まることになります。

自給自足を補い、過不足を調整し、互いに安定した関係を維持しながら、互いに生存の可能性を高める。物流の手間が少なく身近で済ますことができれば、これが地産地消です。地産地消を成立させるにはなにより、互いの信用信頼が一番の基礎となります。そのような互いの了解が暗黙の掟となって成立しているところでは、よそ者は警戒されるでしょう。


地産地消は地元での交換ですから、その交換媒体は上納という権力でも、持ちつ持たれつの互助でも、通貨でもいいのです。本来、通貨は交換の手段です。通貨をいくら貯め込んでも、それを担保する信用が失われてしまえば交換することはできません。しかし、やはり効率的な交換には便利なものですから、共通通貨が信用を失っても、地域通貨が機能していれば地産地消の交換には役立ちます。

地域通貨については、通貨の信用喪失(インフレーション)に対するセイフティ・ネットとして、検討、導入の価値はあろうかと思います。

これもまた自給自足と同じように、食糧ばかりが対象ではありません。身近な人との間で智恵や知識を交換する。「美味しい!これどうやって作るの?」というのは普段からなされている交換です。教えを請う、教育を受ける、作ってもらう、やってもらう、世話してもらうなどなど。このような活動も地産地消の範囲に入ります。

自給自足

人は生存するためにエネルギーと水を必要とします。そのため、それを獲得するために行動します。エネルギーの獲得は、木の実や果実を採ったり(採取)、魚や鳥や小動物を獲ったり(狩猟)することで叶います。自然に注ぐ太陽エネルギーが十分で、木や草や、魚や鳥や動物が(人に対して)豊富にあればそれで問題はありません。しかし、太陽エネルギーの供給が少なくなるなど、なんらかの理由から獲得が困難になり、獲得するために投入するエネルギーと獲得したエネルギーの採算が合わなくなると、途端に困ってしまいます。

そこで、人はエネルギーとなる植物(木の実、果実、芋、穀物)ものを集中的に育てる(栽培)ことを発見しました。ところが、これも同じ土地では限度があります。干魃や洪水など自然の不確実性の影響も受けます。そこで今度は、草を変換してエネルギーとなる動物を飼育して、さらに移動する(牧畜)することを発明しました。

年間を通して安定した太陽エネルギーに恵まれ、それゆえに常に一定の食糧が得られればよいのですが、現実にはそうはいきません。そのため、獲得したエネルギーを通年で平均化する必要が出てきます。それを可能にするのが保存技術です。干す、漬ける、発酵させる。食品加工の始まりです。こうして食糧を貯えることができるようになり、エネルギーの安定供給が可能になりました。

このように、人はエネルギーの獲得をより確実で安定したものにするための工夫を創造し、それを生存のための情報に組み込みました。内的情報体系である遺伝子に、外的情報体系である文化(伝統・伝承)を付与したといえましょう。親から子へ、子から孫へ受け継がれる外部記憶装置です。

いずれにせよ、すべてが自分あるいは家族でまかなえているのならば、特に問題はありません。これが自給自足です。


現代においても、自給自足が可能なら、他に供給を求める必要はありません。すべて自給するとはいかないまでも、野菜を育てる、穀物を育てる、漁をして魚介類を捕る、あるいは自分で衣類を作る、必要な物資を作ることができれば、他に必需品を求める必要は少なくなります。

家庭菜園、ベランダプランター、干物作り、漬け物作り、味噌作り、手芸裁縫、家具什器作りなどなど。これらの趣味に興味を持ち実践している人が増えています。もっとも昔は家庭で当たり前にやっていたことに戻っているのですが。

昔は親から子へ、姑から嫁へ伝承されていたのでしょうが、これらの外部情報体系を今一度整備し、誰もがアクセスできるようにしておくことは有意義なことでしょう。

考えを広げてみれば、これはなにも野菜作りや釣りなどで食糧を生産するだけではありません。薪を集める、炭を焼く、家を建てるというのも自分自身でやれれば自給自足です。物事を学ぶとか技を磨くということも自分自身で探求すれば自給自足です。トンネルを掘る、水を引く、電気を起こすも、独力でできれば、それもまた自給自足です。